「やっぱり暑い日はビールに限るねぇ!」
僕と梨香はネットで知り合い、今日初めて会った。そしてカラオケでたくさんキスをして、今ビールを飲んでいる。そんな状況の中で、普通に友達と食事に行ったときのように楽しくビールを飲んでいる梨香を、僕は大人だと思った。キスの感触を思い出しながら、左手に残る乳房の感触を思い出しながら、僕はそんな友達のようには笑えない。
この関係がもし恋人たちのものだとしたら、そんなことを考えずに笑えるのだろうか。
「そうだね。暑い日はビールに限る」
酔っ払いたい、と思い、僕はビールを体に流し込む。口の中の渇きを消し、そこにわずかに残る梨香との接吻の残り香を体内に流し込んだ。
「お! 飲みっぷりいいね!」
場所がカラオケだったから、僕らは最後までしていない。たくさんキスをして、ちょっと乳房を触った、その程度だ。恋人ではない男女のセックスを、世の中では「セフレ」と呼んだりする。じゃあ、たくさんキスをしながら乳房を触った後に何事もなかったのように食事をする関係は、どう定義されるのだろうか。
「そういえば、隔たり、歌うまかったね」
梨香は聞いて当然だ、当たり前の話題だ、という自然な声色で言った。確かに、僕らはここに来る前はカラオケにいた。だから当然の流れなのだろうが、実際はほとんどキスしかしていない。なのに、あたかも時間いっぱいにカラオケを堪能したという体温で聞かれたら、舌が戸惑って動かない。
「久しぶりに歌って楽しかったなあ」
僕が何も答えなかったからか、梨香はそう言ってビールをゴクゴクと飲んだ。全く性の匂いのない会話。梨香が意識的に切り替えているのかはわからないが、その場に適応する会話を選べる彼女の健やかさを僕は羨ましいと思った。
「そういえばね、私、介護士として働いているんだけどさ」
おつまみをつまみながら梨香が話し始める。これも自然だ、と僕は感心した。濁りのない、なめらかな話題の移動。梨香は仕事であった出来事や悩みなどを、何の違和感もなく話した。僕はその話に「うんうん」と相槌を打ってはいたが、思考と心はずっとカラオケの中に取り残されていた。
梨香の柔らかな唇。微かに漏れる生温い吐息。
「だからさ、最近は転職しようかなって考えてるんだよね」
Tシャツ越しに伝わるブラジャーの感触。そして、乳房のふくらみ。
「でも、職場の近くに引っ越し決めたばかりだからさ。すぐには転職できないというか」
引っ越し、という言葉に、僕の唇と左手が反応する。カラオケの中に取り残された思考と心が、居酒屋にいる僕の肉体に戻った。
「あれ、梨香って今は実家だっけ?」
「うん。そうだよ。実家出て一人暮らしを始めるの」
キス。もっと深く。
「へぇ、そっか。一人暮らしか。いいね、楽しそうだね」
「楽しみではあるんだけどさ、けっこう大変。冷蔵庫とかベッドとか買わなきゃいけないし」
ベッドで愛して。
「いつ引っ越しするの?」
「えっと、あと一カ月後くらいかな。ちょうど夏が終わって少し涼しくなる時期」
暑いなか引っ越しをするのは大変だしね、と梨香は箸を伸ばす。しっかりと揚げすぎてしまったのか、濃い茶色の唐揚げを掴むと、それを唇で挟み、口の中に入れた。
「美味しい」
引っ越しの話題は終わったというように、梨香は美味しい美味しいといいながらまた唐揚げを口に運ぶ。僕の思考と心は、見たこともない梨香の一人暮らしの家に縛られ、動けない。
「隔たりも食べなよ」
「あ、う、うん」
梨香に促され、僕も唐揚げを口に運んだ。やっぱり揚げすぎていて、衣の味が濃くて苦い。その中にある肉を噛むと肉汁が溢れ、ビールとは違った形で口の中を潤した。
「美味しい。もう一個食べる」
僕は唐揚げをもうひとつ口に運んだ。美味しい。肉は裏切らない。いや、油が裏切らないのかもしれない。油を取ると、食欲は刺激され、もっと食べたいと脳に信号を出す。
「ね、美味しいでしょ?」
唐揚げによって刺激された「もっと食べたい」という食欲は、梨香の顔を見ると「もっとキスしたい」という性欲に変身する。油でテカった彼女の唇に、食欲と性欲の両方が刺激された。梨香の汗ばむ肉体を想像するといても立ってもいられず、僕は己の醜さを隠すように「ごめんトイレ」とだけ言って席を立った。
「ごちそうさま! ありがとう! 美味しかった!」
「いやいや、いいよ。こちらこそ楽しかったし」
会計は僕が払った。梨香を食欲だの性欲だのの対象にしてしまったことに罪悪感があったからだ。性的な匂いのない会話をしながら、頭の中で性的な妄想をしてしまったと思うと、その申し訳なさから立場を低くしてしまいたくなる。