風俗栄枯盛衰:繁栄と衰退を繰り返す歴史 ~ニッポンの風俗史#15~

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風俗ビル摘発は万博開催の波乱の始まりか


 11月初め、大阪・枚方にある風俗ビルが摘発を受け、ピンクサロンの経営者をはじめ、ビルオーナーらが送検された。

 ピンサロはフェラ抜きが主な、飲食店の届け出で営業している店舗型風俗店だ。興味のない人にはキャバクラと区別しにくいかもしれないが、看板に「花びら3回転」とか「無制限!」など書かれているのがそれだ。

 中にはピンサロは「合法」とカン違いしている同業者もいるが、今回の事件が示すとおり、風営法によって規制されている。

 ではなぜ今なお、駅前の繁華街や歓楽街に看板を出して営業できているのか? それは、とりもなおさず、行政の”お目こぼし”に他ならない。


「売春させません。ぼったくりもしません。飲食店として納税もします。街の片隅でひっそりと営業しますので、どうか穏便に…」


 という営業方針で、世の中のオトナのオアシスの役割を担っている。おもしろいのは、飲食店で届け出ているため、飲食店ランク付けサイト『R』にも載っている店があることだ。レビューがないのは、もちろんそういう理由に他ならない(笑)。

 今回の大阪での摘発を考えるに、同ビルは複数のピンクサロンが入った風俗ビルであり、ハデな看板が目立っていた。そして、場所が風営法で規制されている風俗店出店不可能な地域であったことだろう。

 大阪府は5年後に大阪万博開催を控えていて、当局は風俗店に対して敏感になってきている。有名なピンサロビルを摘発することで、同業者に対する”見せしめ”的な意味合いもあるのだろう。

 これは、『バブルとガイジンと萌芽 混沌の時代 ~ニッポンの風俗史#12~』でも書いた、花博開催とソープランド撤退の関係と同じ構図とも考えられる。「新地が残されているから、大阪は風俗に優しい街」と思ったら大間違いなのだ。

 

表も裏も大人気! 第二次風俗ブーム到来

 多数の風俗月刊誌が発行されるとともに、ヘルスやイメクラの風俗嬢たちが「フードル」と呼ばれ、もてはやされる時代になった2000年頃、裏風俗人気も急上昇していた。

 新大久保のラブホ街には、国際色豊かな立ちんぼが集まり、「国際通り」とか、バンコクの風俗街をもじった「パッコンストリート」などと呼ばれるようになっていた。

 池袋北口のラブホ街は、日本人熟女からアジア系、南米系、東欧系、そして黒人まで、それこそ色とりどりの肌の女のコたちが立っていた。

 露出度の高い服を身につけ、ブラウスやTシャツの胸元からは溢れ出るような胸の谷間を強調しては、道行く男性に笑顔で、「アソビマンセカ?」と、声をかけていたのだ。

 それは、新大久保と池袋だけでなく、歌舞伎町のハイジア周辺や鴬谷、錦糸町、町田など、ラブホ街があれば、その周辺の路地には自然と街娼たちの姿が見られるようになっていた。

 もちろん都内にとどまらず、名古屋の納屋橋のラブホ街や、大阪の兎我野町、横浜の末吉町でも同様の光景が見られた。

 当時、大久保の編集プロダクションで働いていた雑誌デザイナーのC氏はこう話す。


「90年代後半から2000年頃、立ちんぼちゃんたちがメチャメチャ増えはじめたんです。夜、歌舞伎町で飲んでから新大久保駅に向うと、路地に女のコがズラッと並んでるんです。韓国に中国、ブラジル、ベネズエラと、路地によって国籍が違ってて、『昨日はハングル語、今日はスペイン語のお勉強』って、けっこういろんな国の女のコと遊びましたよ。

 そのおかげで、韓国語もスペイン語も挨拶くらいだったら話せるようになりました(笑)。いつも酔っぱらって行ってたんで、ゴムも着けずにパコパコやってたのは、今考えるとかなりコワイです。一発2万円くらいだったかな(汗)」


 ラブホ街に立ちんぼの女の子が並んでいた頃、関東最大のちょんの間街・黄金町には、大きな問題が起きていた。京浜急行が、高架の耐震補強工事を理由に、終戦以降、ちょんの間が間借りし続けていた高架下から店舗を排除しはじめたのだ。

 風俗ブームで黄金町にも客が増えはじめていた時期に高架下を追い出され、「黄金町のちょんの間の歴史もこれまでか」と思われた。

 がしかし、たくましきちょんの間の経営者たちは、高架下の路地の反対側に場所を移しただけで、壊滅どころか、さらに拡張拡大していったのだ。部屋は新しくきれいになり、女のコの数も激増した。

 すでにこの頃、常連客たちの間では、『コの字』『バフィー通り』『リバーサイド』『極細』など、特定の場所が通称で呼ばれるようになっていて、インターネットの掲示板を見て他県から遊びに来た男達と共に、黄金町の最盛期へと向かっていった。

 ピンク色のネオンの中にたたずむ女の子は、中国、台湾、タイ、ベトナムなどの女のコを中心に、白人の金髪美女も見られた。あどけないほどかわいいアジア系の女の子も多く、小柄なスタイルとその顔に惚れて上がると、脱いだら下腹部は出産直後のようなシワシワ状態だったということも少なくなかった。

 しかし、この手の街には暴力団の陰がチラつくのはいつの世も同じ。暴力団員同士のシマ争いや事件、街の風紀上の問題などでしばしば警察の手が入っていた。

 川崎・堀之内や町田、沖縄の真栄原のちょんの間街も同様で、2000年以降、筆者が取材に行くたびに店舗もピンクのネオンも増え、女の子も客の男たちも増えて賑やかになっていった。まさに全国的なブームが起きていたのだった。

 2001年、新世紀の始まりとともに、世界初の常設型メイド喫茶である『Cure Maid Café』が秋葉原で開店すると、「電気街」としての秋葉原から、「萌え文化」の聖地としてのアキバに変貌。その後、ドラマ『電車男』のヒットにより、アキバ発のメイドブームは、全国に広まることとなった。

 

世紀末から終わりは始まっていた


 新しい文化が生まれる一方で、2001年は大きな不幸が襲った年でもあった。

 9月1日未明、新宿歌舞伎町の一角が、煙と消防車の赤色灯とサイレンで埋め尽くされていた。風俗ビルで火災が起き、44名死亡3名重症という惨劇が起きたのだ。

 現場のビルには、風俗店やマージャン店などが入っていて、非常階段にはおしぼりのケースや店の備品などが置かれて避難ができず、煙による一酸化炭素中毒で大勢の被害者を出すことになった。

 その後の現場検証では、出火原因は放火とも事故とも言われているが、現在も解明されていない。ビルは保全のためしばらく工事用鋼板で囲われ、”負の遺構”のように歌舞伎町に残されていたが、2006年、和解が成立し、その後解体された。現在は平屋の店舗が建っている。

 歌舞伎町で悲惨な火災が起き、そのショックも冷めやらない10日後の9月11日、今度は全世界を巻き込むショッキングな事件が起きた。ニューヨークで、貿易センタービルに旅客機が突っ込むなどのアメリカ同時多発テロが起きたのだ。

 2977人が死亡、2万5000人以上が負傷という、人類史上最大のテロで新世紀の幕開が上がることになってしまった。

 同じ頃、日本では本番アリの店舗型風俗が人気を呼んでいた。埼玉・西川口駅付近に個室式のピンサロや割烹風俗店が流入し、「西川口流」と称して本番アリを堂々と謳って営業を始めたのだ。

 もちろん、埼玉でもどこであろうと本番風俗はご法度だが、関係者の間では「西川口は警察署長が緩い」という、都市伝説のような根拠のない噂が広まり、西川口流(NK流)の店はどんどん増えていった。

 そして、その流派(?)は西川口にとどまらず、近隣の越谷や草加に飛び火し、はては群馬、そして全国の歓楽街でも「ご当地流」と呼ばれるピンサロやヘルスが登場していった。そして、不思議と摘発も緩かった。

 当時、筆者も恐る恐る西川口の人気店『H』に遊びにいってみたが、本当にフツーに本番ができて感動したものだった。

 筆者はこの頃フリー記者となり、以降、全国の風俗、裏風俗を取材すべく毎月のように地方取材に行くようになったのだが、2001年から2002年にかけて、大きく変わった風俗街があった。それは、仙台の国分町だった。

 巷では日韓共催W杯の話題で持ちきりの中、仙台のスタジアムでも予選大会が開催された。取材に行ったのはその直後だったが、「国分町名物」とまで言われた違法デートクラブのピンクビラが、前年までは電話ボックスどころか、電柱や郵便ポスト、フェンスや歩道にまでモザイクの絨毯のように貼られていた。しかし、W杯が始まった途端に消えてしまったのだった。

 ピンクビラ風俗は、ビラを貼っている現場を押さえられただけで売春防止法で逮捕となる違法風俗。他県や海外からサッカー観戦に来る来客への対策に違いないので、W杯以降はまた復活すると思われたが、現在もほぼ見なくなってしまった。W杯開催によって無くなった裏風俗といっていいだろう。

 そして2年後の2004年、日本の風俗にとって新風営法施行以来の大きな”事件”が勃発することになる。その事件によって、99年のデリヘル合法化の本当の意味がわかってくる。果たしてその事件とは。次号に続く…。

〈文/松本雷太〉


<参考文献>
・「風俗のミカタ1968-2018」人間社文庫 伊藤裕作

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