横浜イメクラで夜這った若妻は…
先日、久しぶりに店舗型イメクラに行った。イメクラ遊びは、筆者がオナニーとともにライフワークと考えているもののひとつで、都内だとそのほとんどがデリになってしまったが、横浜にはまだ店舗型があるので嬉しい。
横浜に行ったのは某雑誌のネタ集めだったが、そのネタも「今はやってないんです」とのことで、全ての予定が瞬時に終了…。雨の中、せっかく横浜まで来たのだからということでイメクラ遊びとなったのだった。
軒先で雨宿りしながらスマホとにらめっこして決めたのは、人妻系の夜這いイメクラだった。21時過ぎかつ雨のせいか、女の子の選択肢はなく、対応できるのはひとりだけという。
しかし、20代後半でエロくて人気、なによりパイパンということなので問題ナシ。どんなにエロい若妻かとワクワク気分で店に行き、ご案内された部屋に入ると、ベッドでアイマスクをして寝ていたのは、イモトアヤコそっくりの若妻なのでした(笑)。
アイマスクをした顔の下半分がイモトそっくりで、声には出さないけど、もう笑っちゃってダメ。コスチュームがキャミソールじゃなくてセーラー服だったとしたら、一瞬で腹わた崩壊していたに違いない(笑)。久しぶりの横浜風俗探訪は、取材も遊びも残念な結果となったのでした…。
服を脱がすところから始まる萌える風俗
昭和後期に登場したニュー風俗は、時代が平成に移り変わる頃には、日本人の深層に眠るフェチやアナルセックスなど、それまでタブーとされていた様々な性癖を覚醒させ、さらに新しいジャンルの風俗を誕生させた。
それが、SMクラブであり、テレクラでありブルセラや性感ヘルスだった。そんな新しい風俗は、狂乱のバブル経済の波に乗り、世間に広がっていった。
そして、バブルが崩壊を迎える頃、歌舞伎町の風俗街に、ファッションヘルスから派生したまた新たな風俗が萌芽を迎えていた。
裸になってからスタートするソープランドやファッションヘルスに対し、着ている衣装や部屋の雰囲気にこだわり、服を脱がせるところから始まる新しいコンセプトの風俗店、「イメージクラブ」の誕生である。
イメクラは、「気持ちよくキンタマが軽くなればそれでいい」というオス的な快楽から、「股間だけでなく、頭の中に見える幻想も満足させたい」という、闇なる性癖を覚醒させたのだ。事実、ベルトコンベア式のファッションヘルスやソープに、飽き始めていた男性も少なくなかった。
その当時を元風俗誌編集長Y氏はこう話す。
「実はイメクラは、ある人物に頼まれて私がプロデュースしたんです。91年春のこと。ただし、風俗店ではなく、会員制の『夜這い同好会』としてね。
厳しくなった風営法にも縛られず、同好の士たちと妄想の世界に浸れる楽しい夜這いサークルをと創ったんだけど、思った以上に評判になったんですよ。で、その情報がなぜか風俗業者に流れて、僕の知らないところで歌舞伎町で店舗展開が始まっちゃったんだけど、これがウケたんだね(笑)」
イメクラの誕生はノーパン喫茶同様に諸説あり、風俗ライターの伊藤裕作氏によると、イメクラの第一号店は、1986年、鶯谷の『夢』とある。元中学校教師が始めた店で、川端康成の小説『眠れる美女』や谷崎潤一郎の『鍵』をイメージしていたとされる。
川端の『眠れる美女』は夜這いイメクラに通じ、Y氏考案の夜這い同好会といい、イメクラの原点は夜這い文化にあることは間違いなさそうだ。
現実世界では犯罪となるようなプレイを体験できるイメクラは、夜這いのほかに、電車痴漢、オフィスセクハラ、女のコの部屋や牢獄、診察室など、様々なアイディアが取り入れられ、続々と増えていった。
そのシチュエーションの数だけ、男たちの胸の中に自覚しきれない性欲が眠っていたことになる。そして、この萌芽がなければ、筆者のライフワークも、横浜のイモトとの出会いもなかっただろう(笑)。