バブルとガイジンと萌芽 混沌の時代 ~ニッポンの風俗史#12~  

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バブルの波に乗って盛り上がったニュー風俗


 1980年代半ば、ニッポンの風俗業界は、非常に大きな変革期に揺れていた。

 ノーパン喫茶から始まった新しい潮流は、ファッションマッサージや覗き部屋を生み出した。それをマスコミがテレビ番組などで取り上げると、風俗は一般大衆を巻き込んで世の中に拡散されていった。

 広まる扇情的な不調を止めるべく新風営法が施行され、トルコ人留学生と小池百合子によって「トルコ風呂」から「ソープランド」に呼び名が替わり、テレクラが誕生し、初めてのエイズ患者が出るなど、まさにカオスだった80年代のニッポン風俗。それは、ヌキだけでなく飲み系風俗にもまた大きな変革をもたらしていた。

 新風営法施行の1年前の1984年、新宿歌舞伎町に、最初のキャバクラ『新宿キャッツ』が開店した。

 「キャバクラ」とは文字通り「キャバレー」と「クラブ」を合わせた造語で、「キャバレー」のように明朗会計で、「クラブ」のような高級感漂う飲み屋という意味だ。

 キャバクラは、すでに下火となりつつあったキャバレーの客を取り込むことに成功しただけでなく、高級クラブに通っていた上客たちを獲得することにも成功した。

 その後、続々と誕生したキャバクラは、世界を飲み込んだ歴史的な経済の波に乗ることにも成功した。その大きな波こそ、「バブル」だった。

 プラザ合意を発端に「財テク」がブームとなり、投資家たちは世界的に有名な絵画や芸術品を高値で買ってはさらに高値で売り、完成してもいない億超えのリゾートマンションが売り切れ、夜毎、歓楽街では人も札ビラも舞い踊った。

 その金額に見合う価値がないのに高値がつき、その売買が繰り返されて行く。その意味では、新風営法施行と同時期に誕生した「ブルセラ」も同じかもしれない。

 なにせ、女のコの写真が付くだけで高値で売られている「使用済み」パンティは、本当に写真の女の子が使ったものかどうかは本人にしかわからない。いや、本人でさえきっとわかっていないにもかかわらず、新品の数倍の金で取引される。

 唯一、バブル経済と違うのは、買った後に価値が上がることも、売買が繰り返されることもほぼないところ。そして、買った本人は、あるかないかもわからない価値を信じて夜毎、布団の上でティッシュを舞い躍らせるのだった(笑)。

 

深層心理に潜む性癖を覚醒させる


 バブルと共に急増した風俗店はそれだけではない。ノーパン喫茶から始まったニュー風俗の萌芽は、人々の深層に潜む性的な欲求を覚醒させていた。

 SMクラブが急増したのもその頃だ。それまでは個人的な趣味としてアンダーグラウンドな場所で楽しまれていたものが、風俗店として地上に登場した。


「SMが日本に入って来たのは戦後です。80年代前後までは閉鎖的な会員制のクラブで行われていて、今よりずっと敷居が高かった。そこで、当時のトルコ風呂が利用されることも多かったんです」


 そう語るのは、フェチAV業界では有名なM監督だ。


「敷居の高いSMクラブに行けない人が、トルコ風呂でお姉さんに頼んで飲尿させてもらったり、アナルをホジホジしてもらったりしてた。それが、80年代の風俗改革期を経て敷居が低くなり、人目につくところに現れた」(同氏)


 また同じ時期、SMはホテトル(ホテルを利用したトルコ風呂=ホテル売春)やマントル(マンションを利用した、以下ホテトルに準ず)の隠れ蓑として利用されることがあった。

 その理由は、SMは本来、本番どころか射精すらしないことが珍しくなく、肉体的、精神的な苦痛を満足感とする風俗である。そのため、非風俗店として当局から目をそらせることに最適と考えられたためだった。

 そのせいなのか筆者も若い頃、「SMは、ソープみたいな店」とカン違いしていた記憶がある。

 そして村上龍の小説「トパーズ」がヒットするや、官能的なSMの世界に影響を受けたバブリーな好事家たちが、一般的な風俗店よりは高額であったSMクラブに通うようになり、それも話題となってより広く周知されていった。

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