銀座のホステスがトルコ風呂に ~ニッポンの風俗史・戦後編#9~

 風俗ジャーナリストの草分け、広岡敬一氏は当時のジャパゆきさんの様子をこう語っている。


「当時あったホテルニュージャパンのロビーや、赤坂のTBSの裏手にも(ジャパゆきさんが)立っていた」


 彼女たちは一見個人営業の立ちんぼのようだが、もちろん裏で某組織が動いていたのは間違いない。同じく風俗ジャーナリストの岩永文夫氏も、


「その経緯を取材したあと、打ち上げに一杯やった。雑談するうち、『泊まっているホテルに11時に伺うよう言うときました』」


 そう、大阪の大物ヤクザにジャパゆきさんを紹介されたという。

 夜、ホテルの部屋にやってきたその女性は、フィリピンのセブ島出身のすごい美女で、マニラのクラブで働いているところをスカウトされ、日本に連れてこられた。


「初めはイヤだったけど、おカネになるのは嬉しい。2日でマニラの1カ月分稼げる」


 そう言う彼女は1年で借金を返したが、セブに家を買うため日本に残って仕事を続けると言っていたと書かれている。

 「ジャパゆきさん」というと、1980年代以降、特にバブル景気に湧く頃に急増し広く認知されるようになったが、70年代からニッポンの風俗で働いていたのだ。その後、アフター可能なダンサーやトルコ風呂で働くジャパゆきさんも登場している。

 

 


 雄琴のトルコ風呂は京都から?

 当時、日本で有名なトルコ風呂街は、美女の集まる東京・吉原、泡踊り発祥の川崎・堀之内、そして、サービス抜群と言われた滋賀・雄琴の3ヶ所だった。では、なぜ琵琶湖のほとりの田園地帯だった場所にトルコ風呂ができたのか?

 昭和46年(1971)、雄琴に最初のトルコ風呂『花影』を建てたのは、石川県の山中温泉でトルコ風呂『花園』を経営する田守世四郎だった。田守は、すでに世間ではモータリゼーションが始まり、マイカーで遠出をするようになっていた時代背景から、郊外型のトルコ風呂は需要があると見込んだのだ。

 そんな話をバカにする仲間もいたが、田園の中に建った4階建てのトルコ風呂は、開店当日から満員御礼となった。翌年になると、同じ場所に新たなトルコ風呂が続々と進出し、あたりは一大トルコ風呂街へと発展。近隣にあった雄琴温泉との相乗効果で大いに賑わったのだった。

 ここまではネットの記事でもいろいろなところに書かれている事実だが、筆者は以前何かの記事を読み、「雄琴に集まってきたトルコ風呂は、京都市内から逃れてきたもの」だと記憶していた。しかし、その裏付けを取ろうといろいろ探したのだが、裏どころか、その記事の出展もあやふやなことに気付かされた。

 『観光都市』を標榜する京都市から、トルコ風呂が排除されることは無きにしも非ずだが、その歴史が残っていない。大阪は1990年の花博の際に、ソープランドを府内から排除したが、その20年前の京都のトルコ風呂の件が、どうにも裏が取れないのだ。

 今後、この風俗史を書き進める中で、ひょっとしたら事実がわかるかもしれないので、その際には後世に残るよう、確実に書き残しておくことにする。

 

 

 そしてこの頃、全国のトルコ風呂は1239店舗、トルコ嬢は1万6833名に。そしてこの数年後、ニッポンの風俗史上もっとも衝撃的な店が京都に登場することになるのだった。

 続く…。

〈文/松本雷太〉

 

<参考文献>

・「戦後性風俗大系 わが女神たち」小学館 広岡敬一著
・「フーゾク進化論」平凡社新書 岩永文夫著
・「フーゾクの日本史」講談社 岩永文夫著
・「日本風俗業大全」データハウス 現代風俗研究会著
・AERA dot.

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