あの場所、その人の真実はいつも闇の中
2020年8月、本来であれば今頃は、国を挙げて東京オリンピック、パラリンピックの熱にうなされているはずだった。遡れば56年前の昭和39年(1964)にも、同じ東京で熱狂が渦巻いていたのである。
50年以上の月日が経つ間に情報は溢れ錯綜し、前々号でまたしても一部情報を間違えてお伝えしてしまった。
首相官邸裏にトルコ風呂の申請が出されたのが、東京オリンピック前年の昭和38年で、時の首相・佐藤栄作の逆鱗に触れた、と書いた。しかし、調べてみると佐藤内閣は昭和39年発足で、当時は第2次池田内閣の時代。官邸裏のトルコ風呂の件も、昭和41年のことだと判明しました。
この件の裏付けを確認しているとき、ちょっと面白いネット記事を見つけたので、謝罪だけでは申し訳ないのでお知らせしておきます。テーマは、『「トルコ風呂申請された官邸裏」とはどこだったのか?』。永田町にできる予定だったトルコ風呂の予定地を探る記事だ。(http://kokontouzai.jp/region/nagatatyou2)
著者は「手がかりは全く不明」としながらも、いくつかのヒントを元に推理を進めていく。そのヒントとなるのが、「総理官邸の下」と表現した市川房枝議員の言葉。そして、松澤兼人委員の「参議院会館の窓からのぞくと、大きなたれビラが屋上から下に下がっていて、『サウナ・バス、八月一日オープン』と書いてあった」という、国会での説明。
さらに、「ヒルトンホテルの角のところに何とかというビルがある。そこにサウナ・バスとかいう大きなたれビラがたれまして…」などの言葉から、「官邸の北西に位置し、地形的にも低い場所」と、ある一角を示す写真で終わっているのだが果たして…。
このトルコ風呂申請の件に関しては、風俗ジャーナリストの故広岡啓一氏も著書「戦後風俗大系」の中で、申請したのはどこの誰なのか関係各所を取材してみたが、関連書類は見つからなかったとしている。
役所による「関係書類の破棄」はたしか、コロナウイルスが蔓延する前にも世間を騒がせていた事案だった。結局のところ世間の見方としては、「バレたらやばい人に繋がる誰かの何かが書かれていたから」破棄されたというあたりで一致しているのだろう。ということは…。
しかしこの一件が、風営法の規制を厳しくし、トルコ風呂の新規開店の規制強化につながったことは明らかだった。
「まったく余計なことを…」
当時のトルコ風呂経営者たちの胸の内が聞こえてきそうだ。
秘儀公開で全国・世界に知らしめたトルコ風呂の絶技
風俗のオリンピック需要は、キャバレーなどの飲食系以外は期待はずれに終わってしまったが、その2年後の昭和41年、人口は1億人を突破した。ビートルズが来日し、フォークソングやグループサウンズが流行する中、風営法が改正され、トルコ風呂は「個室式浴場(サウナ)」として認可されることになった。
しかしこれは、「認可」と言っても逆に、「風営法で規制できるようになった」の裏返しだった。今でもソープランドの個室にひとり用のスチームサウナが置かれているのは、この時の法律によるものだ。
その3年後の昭和44年(1969)、東大安田講堂事件が起こり、アポロ11号が人類で初めての月面着陸に成功した。その頃、トルコ風呂業界でも人類で初めての出来事が起きていた。高級店にリニューアルオープンしたばかりの堀之内の『川崎城』のトルコ嬢・浜田さん(25歳)によって、”泡踊り”が発案されたのだ。
ご存知の通り泡踊りとは、エアーマットに横たわった男性に、全身泡まみれになった女性が手足のみならず、身体全体をからませながらマッサージする技法のこと。今でもソープランドの大きな魅力のひとつで、マット=泡踊りという意味で使われている。
しかし、当時の泡踊りは、現代のとは少し違いもっとシンプルだったようだ。前出の広岡啓一氏が、同店の別の女性に入った泡踊り初体験によると、「全身に泡をまぶした女性がマットの上で女性上位で乗り、胸と腰を回転させ(くねらせ)ながら、掌と指で股間をシコシコしてくれた」とある。女性の肌の柔らかさと石鹸のツルツルすべすべ感に非常に感激したようだ。
そのお相手の女性によると、発案者の浜田さんは、金井克子を小柄にしたような美女だという。そして浜田さんの素晴らしいところは、このテクニックを独り占めせず、同じ店の女の子に教えたことだった。
おかげで同店は大当たり。入浴料はリニューアル前の1500円から5000円に3倍以上値上げしたにもかかわらず連日の大入り。泡踊りの技法を授かった女の子たちの稼ぎは、1日5万円をくだらなかったという。
ただし客の半数は、テクニックを盗もうとする同業他店のスタッフやトルコ嬢のヒモだったようだ。しかし、そのおかげで泡踊りは全国に広まり、進化して現代に残ることになったといえる。