売春防止法で生まれた新風俗 ~ニッポンの風俗史・戦後#7~

売防法後の本番風俗と新興風俗

 同じ頃、浜松には「ステッキガール」や「ステッキさん」と呼ばれる女性が現れていた。スナックなどの飲み屋で女将に「ステッキお願い」などと言うと呼んでくれる女のコのことで、一緒に飲んで歌ってアフターにも付き合ってくれる、酌婦のような形態だ。常に紳士の脇に寄り添っているステッキのような女性という意味らしい。

 女の子の多くは元繊維産業などの女工たちで、朝鮮戦争特需が終わり、工場閉鎖で職にあぶれた元女工たちがステッキガールになったと言われている。客の多くは、自動車やオートバイ工場の工員や自衛隊員たちで、浜松ではその需要と供給が一致していたようだ。

 一般男性の月給が1万円程度の時代、ステッキガールの料金は、飲んだり歌ったりが1時間200円、アフターはショートが1000~1200円、泊まりが1500~3000円で、旅館代と時間料金がプラスされると、合計5000円ほど。

 これを現代の物価に換算すると、30万円の給料に対して、1時間6000円、ショートが3万~3万6000円、泊まりが合計15万円と割高感は否めない。最盛期の浜松には「クラブ」と呼ばれる置屋が50軒、ステッキガールが1000人ほどいた。静岡で誕生した後、大阪や東京に広まったが、その後はマントルなどに変化したようだ。

 そして昭和33年(1958)、売春防止法が完全施行されると、川崎では「座布団売春」が、東京では「ネグリジェサロン」が開店し、神戸・福原にはトルコ風呂の亜種「浮世風呂」が誕生した。

 ストリップは「浅草フランス座」「ロック座」「カジノ座」「浅草座」など次々に開店。売春クラブが現れたのものこの頃だ。

 静岡有数の温泉街・熱海では「パンマ」が大流行し、新宿二丁目には女の子の裸を写生してから射精する「ヌードスタジオ」が登場していた。法律で売春が禁じられたことにより、風俗の志向が一気に多様化し、一斉に開花した瞬間だった。

 「座布団売春」は、川崎・堀之内料理組合で行われていた。50センチ四方の一般的な座布団より大きい、70センチ×73センチの座布団を特注し、それを敷き布団代わりに使っていた。

 料金はドリンク制の店が多く、1000~1500円分飲めば、女の子を連れ出すことができる。遊び料金は別途1000円ほどだった。その後、飲まなくても遊べる時間制の店も登場し、30分、20分、15分など短時間になっていき、ちょんの間の端緒と言われている。

 また、現在は有名なLGBTの街となっている新宿二丁目にあった「新宿遊郭」(赤線)も当然、廃止となっていた。近くには青線街(現新宿ゴールデン街付近。赤線は公認、青線は非公認の売春地帯。今でもゴールデン街の飲み屋には狭い二階の部屋があり、かつてはそこで売春が行われていた)があり、赤線の遊女たちはそこに移動したり、新大久保で街娼となったと言われている。

 当時、新宿二丁目で流行したものの、今では消滅してしまった風俗が「ヌードスタジオ」だ。赤線廃止となり、家賃が下がった旧新宿遊郭の店舗に目をつけて入ってきたのが、ゲイバーとヌードスタジオだった。

 ヌードスタジオは、狭い店の中の受付に女性の写真が貼られていて、女性とカメラコースかデッサンコースのどちらかを選び、店の奥にあるスタジオに移動する。

 そこにはたいがい、椅子が一脚置かれ、奥に引かれたカーテンの向こう側には畳と布団が敷いてある。女性は最初から全裸にはならず、トップレスにパンティ1枚からデッサンや写真のモデルとなり、エセ画家や偽カメラマンと意気投合したところで別料金でカーテンの奥に誘うのだった。

 料金はコース料金のみで30分400円だったが、アッという間に500円に値上げ。さらに、込み込みで1時間1000円~4時間5000円程度。近所の旅館への連れ出しは、1時間2200円だった。「ヌードスタジオ」なのに、カメラもスケッチブックも持たずに女のコと旅館に行く客は多かったらしい(笑)。

 そして、同じ新宿二丁目に進出してきたのが、すでに新橋や銀座で人気になっていたゲイバーだった。当時、銀座から新橋にかけて「美少年喫茶」と呼ばれる喫茶店があり、美形のゲイボーイが働いていた。

 銀座のシャンソン喫茶「銀巴里」で人気だったのが丸山臣吾(現・美輪明宏)だった。美しい顔立ちで、「天草四郎の生まれ変わり」と称し、ゲイボーイより格上の「シスターボーイ」と呼ばれ、男性の憧れの的となった。

 丸山は銀座の美少年喫茶「ジュリアン」でも働いている姿が見られていて、常連客には三島由紀夫もいたと言われている。

 一方、新宿の隣の新大久保には朝鮮半島から移ってきた人たちが集落を作り、無許可の簡易旅館で売春宿をやっていた。そこに、新宿二丁目の赤線から移ってきた元赤線経営者たちが加わり、現在の新大久保のラブホ街の基礎が出来上がった。新大久保の街娼の歴史は、この頃から始まったようだ。

 そして、昭和39年(1964)には日本国民期待の東京オリンピックが開催されるのだが、その前年には日本中や世界中から人が集まるオリンピック需要を見込んで、都内にピンクキャバレー(ピンキャバ)が急増していた。

 しかし、ピンキャバは新しい業種すぎたのか、外国人にとって馴染みが感じられず、見込みは大ハズレに終わった。こうして戦後最大の国際イベントを開催するまでに成長したニッポンは、学生運動の時代へと突入して行くことになる。

 続く…。

〈文/松本雷太〉


<参考文献>
・「日本風俗業大全」データハウス 現代風俗研究会著
・「フーゾク進化論」平凡社新書 岩永文夫著
・AERAdot. 2018.4.1 16:00

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