ニッポンの風俗史・戦後#5 売防法とトルコ風呂
コロナ自粛が明けてソープランドに行ったことを前々回に書いた。が、その次に行きたくなったのは、大好きなイメクラではなく、ソープとは真逆の焦らし系・メンズエステだった。
実は、メンズエステでお気に入りの店がある。代々木にあるマンションエステで、熟女や人妻が最後には下着姿で騎乗位素股チックなことをしてくれる、とても思わせぶりな店だったのだが…。
久々に行こうかと思ってHPをチェックしたら…出てこない。そう、閉店していたのだ。その理由がコロナ自粛によるものなのかは不明だが、とにかく閉店したのは事実のようだ。
それならばと、キンタマはコロコロしてくれるけど、サオはさわってくれない中野の回春エステのHPを見てみると、こちらはすでに5年も更新が止まっている。
じゃあじゃあ、池袋にあったあの紙Tパンツの中でビンビンになってハミ出た部分を、水着姿でボディー洗いしてくれる洗体エステは…。とっくのとうに閉店していた。
歌舞伎町にあったプラス5Kで手コキしてくれる美女エステも、変わっているのを確認しているし、小岩にある全裸でマットボディー洗いしてくれる手コキエステは大陸系のみになっている。
残念だが、どうやら筆者のお気に入りに登録されたメンズエステは、数年で閉店する運命にあるらしい。サービス過剰が原因なのか、焦らしすぎて客が減ったのかは不明だ。やっぱり、基本どおり、イメクラに行くのが吉となりそうだ。
メンズエステとは メンズエステとは、一般的にはダイエットや美肌、脱毛などの男性向け美容サービスのこと。だが、一部には美女セラピストからオイルを使った濃厚なマッサージを受けられるメンズエステが存在する。今回の記事では、こ
昭和31年 神武景気と三種の神器と新たな法律
終戦から6年、銀座に日本初の『トルコ風呂』が登場すると、爆発的な人気を呼んだ。朝鮮特需で急上昇する景気を追い風に、トルコ風呂は全国に広まっていった。
そして、朝鮮戦争が休戦となる頃には、ミス・トルコたちのナイショの過剰サービスが人気を呼んでいた。「オスペ」と呼ばれる手コキサービスは、浅草のひさご通りにあったトルコ風呂から始まったと言われているが、同じ頃に同じようなサービスを始めたミス・トルコは、他にもたくさんいただろう。
これを現在に置き換えると、マンションメンズエステの美女が、「ナイショだよ。特別だからね」と囁いて、紙パンツの中でビンビンになった股間に手を伸ばし、上下運動の特殊マッサージでフィニッシュさせてくれるのと何ひとつ変わらない。
それでなくても人気の業種で、麗しきミス・トルコが男の夢も希望も満足させてくれるとあらば、一度で虜になってしまう男性は少なくなかっただろう。意外に”男の性”とはそれほど単純なものなのだ。
同じ頃、自動車といえばそれまでフォードやパッカードなどの輸入車が中心だった日本に、トヨペットクラウンが登場。モーターリゼーションが芽生え始めた時期だった。
朝鮮特需から神武景気と呼ばれる好景気に湧き、「もはや戦後ではない」という文言が、昭和31年の経済白書に記されるほどだった。
好景気に踊る時代、トルコ以外の風俗も賑わっていたのだろうか? 米兵の帰還によってパンパンは激減し、純然たる風俗の主役は赤線になっていた。その舞台となったのは、戦後に政府が急ごしらえしたRAAの施設や、戦前から残る旧遊郭だった。
赤線と聞くと、筆者は現在の飛田新地やかつての黄金町のちょんの間を想像してしまうのだが、遊び方は旧遊郭の遊び方に近かったようだ。
吉原の例を見ると、店の外観はネオン煌めくしゃれた洋風建築で、まずは店内のバーや個室で女性と一緒に酒や軽食を楽しんでから床に入る、風情溢れる遊びだった。それが、赤線が「特殊飲食店(特飮)」と呼ばれる理由でもある。

現在のちょんの間は、「ちょっとの間」という名前の通り肝心なことをするだけで、時間は15分~30分程度。対して赤線は、ショートが60分~90分だった。
昭和31年、大卒国家公務員の初任給が8700円だった頃、東京一高級な赤線である吉原の中級店の料金は、ショートが1500円(飲食代別)だった。
ただし、当時は地域や店のレベルによって時間や料金に格差があり、安い地域だとそれこそヤルだけで15分500円程度。現在の物価と比較するため20倍にして比べてみると、17万4000円の給料に対し、吉原の中級店が3万円、安い地域は1万円となり、ほぼそのまま現在の比率に通じることがわかる。
当時の赤線は公娼廃止令の中でも、”公認”という免罪符の下、きちっと税金を納めて一企業として売春宿を経営していた。しかし、実情はそれほど儲かってはいなかったのではないだろうか。