太平洋戦争と朝鮮戦争を生き抜くパンパンたち 〜ニッポンの風俗史・戦後#3〜

 昭和24年、街では同名映画と共に、高峰秀子が唄う『銀座カンカン娘』が大流行していた。明るいリズムと「カンカン」という歌詞が楽しげだが、実はその詩には、必死に生きる”パンパン”への蔑視に対し、「カンカンに怒っている」という意味が込められていた。三番の歌詞にそれは如実に現れている。『星の流れに』同様、当時流行った歌には、深い意味が感じられる。

 

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 そして、昭和25年、敗戦国日本は、またしても世界の大きな波に巻き込まれることになる。


昭和25年(1950)6月 朝鮮戦争勃発


 アメリカ軍が朝鮮半島に出兵するため、日本はその後方基地として利用されることになった。アメリカ軍、国連軍共に日本には鋼材や繊維、食料といった物資を求め、日本経済は戦争特需に沸いた。

 太平洋戦争終結後、全国にいたパンパンの数は8万とも15万とも40万とも言われているが(文献によって様々でどれが正解かは不明)、その後、進駐軍が徐々に撤退するに従って減っていた。

 しかし、朝鮮戦争によって米軍基地が活発に動き始めると、日本に集まってくる多くの兵士目当てに、パンパンたちも再び増加していった。翌年、戦争が激化するとさらに増え、ピーク時には全国のパンパンは70万人(15万説もあり)に急増していた。

 当時のパンパンたちの相場は、もりそば1杯17円に対し、ショートが1000円、ロングが3000~4000円だったが、泊まりだと7万円と急に跳ね上がった。

 その理由は、女性側が客と長い時間一緒にいて情が移るのを敬遠したためと言われている。つまり、高い料金を設定すれば、客もあえて泊まりでは遊ばないのではないか、という思惑だ。

 そのあたりに、「商売相手に本気にはならない」というパンパンたちの気概が感じられる。そして、「好きでやっている商売じゃない」という辛い本音も伝わってくる。

 料金をそのまま現在の物価に照らし合わせると、ショート3万、ロング10万、泊まりは200万円以上となる。この料金が本当なら、当時の米軍の将校クラス用の料金と思われる。

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