黄金の町から悲劇の街へ 黄金町バラック街
ヨーロッパから入ってきた新しい文化「ストリップショー」に東京が湧いている頃、隣の横浜は街のほとんどを、進駐してきたアメリカ軍に接収、支配されていた。
大岡川の南東にある福富町や長者町、若葉町に、アメリカ軍の飛行場と宿舎を建設するため、周辺住民には24時間以内の立ち退きが命じられた。
急に下されたその命令に怒りは感じても、敗戦国の貧民には何の力があろうはずもない。そこに住んでいた人々が移ったのが、黄金町駅周辺の初音町や日ノ出町だった。
横浜市はやむなく、退去、流入してきた人々に対し、「空いている土地ならどこに家を建てても構わない」という許可を出した。すると瞬く間に、京浜急行の高架下を中心にバラックが並び始めたのだった。
終戦直前、5月29日の横浜大空襲時には、周辺の人々が銃弾を逃れて駆け込んだ京急の高架下に焼夷弾が命中。多くの人々が焼死したのもまた黄金町だった。
かつて、日ノ出町には実業家で政治家の上郎清助(こうろう・せいすけ)の屋敷があり、戦前のこの街は「お屋敷街」とも呼ばれていた。
しかし、空襲はそんな風情は建物もろとも焼き払ったのだった。高架沿いにはバラックが建ち並び、大岡川沿いには、半分川にハミ出した木賃宿が並ぶ。さらに川には船上宿もずらりと浮かび、まるで水上村のようだった。
野毛にはヤミ市がたち、黄金町のバラックには、真金町にあった永真遊郭や伊勢佐木町あたりから逃れて来た娼婦たちも駆け込んだ。
彼女たちは今日を生きるため、そのバラックで飲食店をやりつつ客をとる売春を始めた。それが、そこから70年続く”黄金町のちょんの間”の始まりとなったのだった。