国策で売春婦から街娼になった女たち 〜ニッポンの風俗史・戦後~

戦争がもたらした公営風俗


 戦時中、日本軍が進駐した国や地域には、兵士たちの意欲を高めるための慰安所が設置されるのが常だった。ある慰安所の慰安婦たちは、それぞれ「兵隊用」「軍属用」「将校用」と、客となる軍人の階級によって分かれていた。

 「兵隊用」「軍属用」の慰安婦は台湾や朝鮮の女性で、将校用の女性は日本人だが朝鮮名で呼ばれていた。慰安婦たちの月給は250円だったという。

 国内にあったある慰安所では、女性たちの写真の裏に丸、二重丸、三重丸の印が書かれていて、容姿レベルで料金が分かれていた。1回1円~2円程度だったが、それでも女性たちは高給取りに違いなかった。

 女性は朝鮮人が多く、日本人もいたが少数だった。戦後のRAAで働く女性の中には、ひと月で5万円を稼ぐ女性もいた。

 また、同様の慰安所は日本軍だけでなく、多くの外国の軍隊も持ち、それぞれの愛称で呼ばれていた。フランス軍は「キャンディボックス」、韓国軍(ベトナム戦争時)は「トルコ風呂」、連合国、アメリカ軍(朝鮮戦争時)は「キャンプタウン」などだった。

 女性たちを守るべくして誕生したRAAだったが、早々に存亡の危機が訪れた。同年10月、GHQ最高司令官・マッカーサーが時の首相・幣原喜重郎(しではら きじゅうろう)に対し口頭で、「婦人の解放」などの民主化に関する五大改革を指令したのだ。

 そして翌21年(1946年)1月、GHQは日本政府に対する覚書『日本における公娼制度の廃止』を発し、RAAの廃止を命じた。廃止の理由は、「公娼制度は民主主義の理想に反し、個人の自由と矛盾する」というもので、日本政府は『公娼制度廃止に関する件依命通達』を発令した。


2月 日本政府『人身売買を禁ずる規則』を制定
3月 GHQ、RAAへのオフリミッツ(立入禁止)発令


 かくして、戦後政府が国策として開業した売春宿は、半年で廃業となった。オフリミッツの主だった理由は公娼制度の廃止ではあるがそれだけでなく、梅毒の蔓延もそのひとつにあった。

 


 梅毒の治療に使用したペニシリンは、当時日本では『碧素』と呼ばれていた。戦時中に同盟国のドイツが潜水艦・Uボートで様々な機密資料を運んできてくれた中にあった医学書に、ペニシリンに関する論文をみつけて製造したという。もちろん梅毒だけでなく、戦傷兵や傷ついた市民の治療に大いに役立った。

 


 国により売春婦として仕立てられ、国の指示で仕事を取り上げられた女性たちは行き場を失い、そのまま私娼(売春婦)となった女性も少なくない。

 当時、「パンパン」と呼ばれた街娼たちは、全国に7~8万人いたと言われている。そして、オフリミッツとなったRAAや遊郭は、そのまま赤線、青線または特殊飲食街へと移行していった。


<都内にあった慰安所>

板橋  成増慰安所
大井・大森 小町園
      見晴し
      やなぎ
      波満川
      悟空林
      乙女
      楽々
三多摩地区 調布園
      福生
      ニュ-・キャッスル
      楽々ハウス
      立川パラダイス
      小町
三軒茶屋  士官クラブ


〈文=松本雷太〉


<参考資料>

・「戦後性風俗体系」広岡啓一
・NEWSポストセブン「93歳旧陸軍歩兵中隊上等兵 戦時中の慰安婦達の実態を語る」より
・全日本民医連HPより
・「敗戦と赤線」加藤政洋

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