現役で営業しているちょんの間がなくなることは寂しい。特に、遊郭の時代から連綿と続いてきた歴史が、平成、令和の時代で終わってしまうということは、どこか自分たちにも責任があるような気がしてならない。それは、風俗ライターという職業だからだろうか。
京都にあった「五条楽園」も、平成の時代に幕を下ろしてしまったちょんの間のひとつ。明治以降、複数の新地が集まり「七条新地」として賑わったお茶屋街で、売春防止法施行後に「五条楽園」と名前を変えた。京都のお茶屋街としては「祇園」が有名だが、あちらは芸を売る芸妓の街で、「五条楽園」は体を売る娼妓の街と線引きされていたようだ。
今でも五条大橋のたもとにあるその街を歩くと、小さく流れる高瀬川沿いに、古びてはいるものの趣を感じるカフェー建築や唐破風を持つ遊郭建築の建物が残っている。もちろん全ての建物がちょんの間だったわけではないが、売春防止法施行後も、その中の十数軒で風俗業が行われていた。
街に並ぶお茶屋に客が入り、女の子をお願いすると女将が置屋から呼んでくれるシステム。「お茶屋」という体裁上、座敷に上がると必ず飲み物とお菓子を出してくれた。街にはちゃんと歌舞練場があり、三味線や踊りの稽古も行われていた。
当時、筆者のお相手をしてくれた女性によると、
「ちゃんと三味線や踊りのお稽古をしないとお座敷には上がれない」
と教えてくれたが、
「和服を着てお座敷に来るのが稽古を積んだ女性で、洋服で来るのは、まだ見習い中の人」
とも。「芸の稽古はしなくても、一応、商売はできるのか…」と、若干腑に落ちない筆者ではあった。