冒頭に「関東三大ちょんの間街」と書いたが、実はそんな呼び名は当時からなかったような気がする。それに、川崎のちょんの間の歴史は江戸時代から連綿と続いていて、戦後に誕生した黄金町や町田とは比べ物にならないほど長く尊い。単純に「関東三大…」とくくるには、畏れ多いような気がしてしまうのだ。
東京と神奈川の都県境を流れる多摩川には、江戸時代にはすでに六郷に橋が架けられていた。しかし、多摩川の氾濫によって橋は度々流され、その際に利用されていたのが渡し船だった。西から東海道を旅してきた者にとって川崎は、船待ちの休憩場所となり、宿場町として発展していった。
宿場町の宿に飯盛女(遊女)がいたことから遊郭が始まり、戦後の赤線・青線時代を経てトルコ街へ。高度経済成長期には「泡踊り」が“発明”され、京浜工業地帯で働く工員たちの労をねぎらい、現在のソープランド街へと変遷してきた。
川崎の風俗街には、珍しい点がもうひとつある。それは、ほぼ同じ地域に堀之内と南町のふたつの街に分かれて存在しているということだ。ふたつの街がどういった関係かというと、実はかつての赤線と青線であった。
ご存じのように、赤線は戦後にできた政府公認の風俗街で、青線は逆に未公認の風俗街である。現在、店舗数が多くて賑やかなのは、多摩川に近い堀之内の方。一方、南町にはソープが数軒とストリップ劇場、そして、その先に広がる住宅街に飲み込まれるように、営業しているのかいないのか、ちょんの間スナックと思しき看板がポツポツと残っている程度。「賑わい」とは無縁の街が広がっている。