風俗なのに挿入はNG、挿入NGなんだけどOKな店もある? という外国人には理解できない独自の進化を遂げたニッポンの“ガラパゴス風俗”。
その歴史を、平成から令和に変わる“日本人にとって歴史の狭間”となる2019年のゴールデンウィークに振り返る短期集中連載!
<注>※歴史には諸説あり、ここに書かれていることがすべて事実とは限らない。
第8回:ニッポン風俗界を陥れた三度目のターニングポイント
戦後、ニッポンの風俗は大きなターニングポイントを3回経験している。最初は、昭和33年「売春防止法」によって赤線が廃止になった時だ。それ以降、ニッポンの風俗は“揷入せず射精に至らしめる”を標榜して現在に至っている。
2回目は、ノーパン喫茶からファッションマッサージ時代に移行し始めた昭和60年(1985年)の、「風俗営業適正化法の改正」である。その時、新たに規制されたことでもっとも影響が大きかったのが、「病院、官公庁、学校などの施設の周囲200メートル以内には、新たな風俗店の出店ができない」こと。つまりこれは、事実上の“風俗店の出店禁止令”となった。
そして平成16年(2004年)、日本の風俗は3回目にして最大のターニングポイントを迎えた。石原慎太郎都知事(当時)の「歌舞伎町浄化作戦」だった。これにより、歌舞伎町一番街を始め、池袋、渋谷他、都内全域に点在していた無届けの店舗型風俗店が摘発、消滅につながった。
西川口の摘発に関して、後に県警を取材した時にわかったのだが、実はこれは、小泉政権(当時)で発足した、「都市再生国家プロジェクト」の中の「歓楽街の浄化と再生」の一環だった。その中に全国の歓楽街が含まれていたため、ニッポンの歓楽街から違法風俗店の看板が消え、やがて、デリヘルの時代へと移り変ることになった。
そして平成17年(2005年)、年明け間もない1月11日の夜、関東最大のちょんの間街・黄金町の大規模摘発が行なわれる。「黄金町バイバイ作戦」の始まりだった。
摘発の理由は、「横浜開港150周年」に向けての街のイメージアップを図るためと言われているが、4年後のイベント向けというには無理がありすぎる。問答無用の、違法風俗の摘発に違いなかった。
摘発以降、連日連夜のパトロールと警察官の常駐によって、ちょんの間街から灯が消え、3カ月後の4月初旬、黄金町のちょんの間は60年の歴史に幕を下ろしたのだった。
摘発を受けたのは、無届けの風俗店やちょんの間だけでなく、立ちんぼも同じだった。新大久保や池袋、錦糸町などのラブホ街で客を引いていた外国人立ちんぼたちも、この年を境にきれいに消えてしまった。これは、同じ立ちんぼの聖地、名古屋の納屋橋や、大阪梅田の兎我野町でも同じだった。