しかし、デリヘルの伸びは悪かった。当時、60分1万6000円程度で遊べた店舗型ヘルスに対し、デリヘルは約2万円ほどかかり、さらにホテル代が必要だった。そして利用客も、ホテトルとデリヘルの違いを知らずに利用することも少なくなかったようだ。
そんなデリヘルを成長させたのは、徐々に一般化してきていたインターネットだった。ダイヤルアップからISDN、そしてブロードバンドと、インターネットの情報量とスピードがアップするに従い、ホームページを持つ店も増えていった。
そんな中、悲劇は起きた。
平成13年(2001年)9月1日、歌舞伎町の風俗ビルから出火。風俗嬢と客、44名死亡という悲劇が起きたのだ。原因は放火とされているが、詳細は現在も不明のままだ。そして、その10日後にはアメリカ同時多発テロ発生と、風俗業界にも世界にとっても痛ましい新世紀の幕開けとなったのだった。
そして平成16年(2004年)、小泉政権と石原都政の風俗業界に激震が走った。「歌舞伎町浄化作戦」と称し、新宿歌舞伎町一番街を中心に軒を連ねていた無登録の違法風俗店に摘発が入ったのだ。
話は前後するが、昭和60年の風営法改正で、店舗型風俗店の新規出店は事実上禁止されていた。なのに、平成に入ってからの風俗ブームで店舗数は急増している…。
つまり、平成の風俗ブームで新たに開店した風俗店は、すべて無許可店、つまり違法風俗店だったことになる。ただし、違法店ではあるが、売春もせず、営業時間等を遵守していたため、お目こぼしを受けていた、ということだ。それが突如として摘発を受け、無届けの風俗店は根こそぎ消え去ったのだった。
摘発は歌舞伎町だけに収まらなかった。池袋でも渋谷でも、都内全体で同様の摘発が相次ぎ、その年だけで280軒が閉店した。閉店した風俗店は廃業もしくはデリヘルに転業することになったのだが、それこそが数年前に用意されていた“受け皿”だったのだ。こうして、店舗型、無店舗型問わずほぼ全ての風俗店が、当局の管理下に置かれることになったのだった。
歌舞伎町浄化作戦は歌舞伎町や都内だけに止まらず、「本番風俗の聖地」と呼ばれた西川口や、関東最大のちょんの間街・横浜黄金町にも及んだ。
黄金町の摘発は、数年後に控えた横浜開港記念イベントのためという理由ではあったが、それが建前でしかないことは、誰の目にも明白だった。
西川口では、風俗店の従業員を中心とした夜間人口2000人が消え、黄金町でも200軒のちょんの間が閉店、街から人と産業が消えた。
筆者は当時から毎月地方の風俗街に取材に行っていたが、この時期、東京以外でも裏風俗や店舗型風俗が摘発されて疑問に思っていた。その疑問は、2年後に西川口摘発の件で埼玉県警を取材した際にわかった。
これは、小泉政権(当時)時に発足した「都市再生プロジェクト」の中の「歓楽街の浄化と再生」の一環だった。その中に、福岡の中州や仙台・国分町、群馬の伊勢崎、千葉・栄町、埼玉の大宮、西川口など、全国12箇所の歓楽街が盛り込まれていたのだ。