昭和35年には、すでに都内で67軒、全国で167軒のトルコ風呂が開店していた。その後、トルコ風呂ブームは政治の中心地・永田町にまで押し寄せ、なんと、首相官邸裏にまでトルコ風呂新設の申請が出されたのだった。
それが時の首相・佐藤栄作の耳に入るや逆鱗に触れ、「風俗営業等取締法の一部を改正する法案」が国会に提出されることに。この一件によって、トルコ風呂の新設にブレーキがかかることとなった。
昭和38年頃には、すでにトルコ風呂では本番が当たり前になっていたが、ご時世は翌年の東京オリンピック開催に向かっている最中である。日本初のトルコ風呂ライター・広岡敬一氏は、「風俗店に対する取り締まりが厳しくなると、(トルコ風呂業者は)本番をご法度とし、オスぺを限界とするサービスに切り替えた」と、書いている。
そして東京オリンピックの2年後には、「風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律(風営法)」が改正され、トルコ風呂は「個室付浴場」に。さらにその2年後には、堀之内の「川崎城」の浜田嬢が「泡おどり」を発案することになる。
また同じ頃、芸能人御用達であった東京・大森の「歌麿」でエアーマットが使用され、ここに「マットプレイ」の基礎が出来上がった。
「個室」という環境、「マット」という道具、そして「泡おどり」という、ソープランドに引き継がれたトルコ風呂独特のサービスは、昭和40年代初期に完成したのだった。
(文=松本雷太)