【平成風俗史】終戦から売春防止法設立まで~ガラパゴス風俗誕生は終戦直後だった⁉︎

 その理由は、人権的な配慮ではなく、性病蔓延の恐れがあるというものだった。当時のニッポンは大都市部以外は衛生状態が極端に悪く、風俗産業に従事している女性の約6割は何らかの性病に罹患していたと言われている。性病に感染する兵士が増えれば戦力が落ちるという、いかにもな理由だったようだ。

 RAAは終戦直後の三カ月で、東京・大森海岸の料亭「小町園」を皮切りに都内に25箇所設置され、続いて大阪、愛知、静岡、岩手など日本各地にも設置されていった。

 ちなみに、公務員の初任給が525円だった当時、「小町亭」の慰安婦の中には月に5万円を稼ぐ人気嬢もいたといわれている。女性の多くは、戦争で夫や家族を失った未亡人が多かった。

 米兵が利用しなくなったRAAは、やがて日本人男性相手の風俗街となったのは自然な流れといえよう。その代表的な場所が、横浜・親不孝通りのカフェー街であり、沖縄の真栄原社交街であった。もっとも、その中には、明治、大正期の遊郭街から発展した場所もあった。

 東京の吉原や大阪の飛田新地を代表とするかつての遊郭街は、廃娼令によって「赤線」となった。赤線とは、半ば公に売春ができる店が置かれた場所のことだ。

 そんな場所の近くには、当然のようにもぐりの売春店が現れるもので、当時の警察がそれを区別するため、(便宜上の)公娼街を赤線で、私娼街を青線で囲った為に呼ばれたのが「赤線」や「青線」だったとされている。他にも「白線」や「黄線」などあったとされるが、結構単純な理由だったようだ。

 そういった意味からいうと横浜・黄金町は青線の部類だが、正確には黄金町が青線と呼ばれた事実は見つかっていない。また、川崎に二箇所あるソープ街のうち、堀之内は青線で、赤線は南町の方だった。

 現在の新宿ゴールデン街はかつての青線で、赤線は新宿二丁目にあった。また、福生にある横田基地の近隣には今でも住民に「赤線」と呼ばれている街があり、スナックやピンクサロンが残っている。

 また、ほんの数年前まで函館駅近くにあった売春スナック街が「せきせん」と呼ばれていたのは、「赤線」→「せきせん」の言い換えと言って間違いないだろう。

 その赤線が廃止されることになった法律が、売春防止法(売防法)である。当時の女性議員や運動家らが、女性の地位向上として擁立、法制化した。

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