明治時代に社会問題になっていたもののひとつが、青少年の非行であった。
当時の新聞を眺めてみると、10代から20代の男女によるさまざまな犯罪や不正行為を報じる記事が実に数多く掲載されている。
ちなみに、この頃から「不良少年」という表現が使われている。同時に「悪少年」という言い方も平行して使われている。ストレートで芸のない言葉だが、なかなか凄みが伝わってくる表現である。
その少年少女をはじめとした連中が、どのような非行を繰り返していたかというと、盗みにかっぱらい、暴行や傷害、脅迫や恐喝、強盗、詐欺、さらに不純異性交遊から婦女暴行まで、やりたい放題に暴れまわっていたというから、不良少年というより青少年ギャング団といったほうがよいくらいだろう。
こうした現状に警察も日ごろから活動を続け、それによって解散するギャング団も少なくなかった。それでも、事態を劇的に改善されるほどではなかったため、ついに一斉検挙が始動した。
そして、明治45年(1912)7月7日の午前5時、警視庁の山本捜査係長が率いる80数名の捜査員が一斉に不良少年たちの検挙に向かった。少年たちのなかには激しく抵抗するものも多かったが、それでも開始後3時間ほどした午前8時頃には実に258人の10代から20代のギャングたちが警察署に連行された。
警察の取り調べによって、ギャングたちは次々に悪事を自白していった。
ところが、強盗や窃盗については自供するものが多いにもかかわらず、不純な異性交遊については誰一人として話す者がいない。だが、すでにそうした行為が繰り返されていたことは、証言や証拠を警察がつかんでいた。