大正15年(1926)7月21日の午後4時頃のこと、警視庁洲崎署(現・深川署)に身なりのキチンとしたご婦人がやってきた。そして、対応した署員に「娼妓になりたい」と告げた。娼妓とはいうまでもなく、売春を業とする女性のことである。
当時はまだ、売春にかかわる営業は合法的に認められていた。「認められていた」というと異論もあるが、広義に解釈すれば、明治6年に施行された「東京府貸座敷及び芸娼妓規則」によって、本人の意思によって警察に届出をして鑑札を受け取れば、事実上の色街エリアである貸座敷で仕事をすることが許されたのである。
婦人の申し出を聞いた担当の署員は、いささか驚いた。娼妓を希望する女性の多くは、何らかの事情がある、いわゆる「ワケあり」の女性であった。そのことが、おのずと女性の外見やしぐさに現れていることが少なくなかったのである。
ところがその婦人、身なりも立ち居振る舞いも上品であったことから、対応した係官はいささか戸惑った。
そこで詳しく事情を聞いてみたものの、自分は37歳の主婦であり、住所と夫の名を告げて身分を明らかにした上で、「どうしても娼妓になりたい」と熱心に頼み込んだ。さらに、もし娼妓になれないのであれば、酌婦でもかまわないと言い出すほどだった。酌婦とは、名目上は料理店などで客と酒の相手をする女性従業員のことであるが、実際には娼婦と内容は同様だった。
これを聞いていた係官は、ますます不審に思った。とくに精神を病んでいる様子にも見えなかったため、係官は辛抱強く説得を続けた。
すると、女性はいきなり涙を流し始め、自分の身の上を話し始めた。