犯行のターゲットに選んだのは、多くの場合は寺院だった。民家などへの空き巣も少なくなかったようだが、何よりも寺の内部や僧侶の生活パターンは熟知している。都合のよい標的だった。
また、空き巣だけでなく、堂々と正面から上がりこむことも多かった。僧侶のいでたちで、「修行の途中ゆえ、一夜の宿をお借りしたい」と頼めば、どの寺院でも快く招き入れてくれるわけである。
そして、隙を見て現金や品物を盗んだり、住職を脅して強盗を働いたりしたわけである。こうした犯行によって、何度も逮捕され投獄されている。その間、次第に犯行も凶悪かつ凶暴になっていく。
寺院でも尼寺に押し入り、尼僧をレイプして金品を強奪するケースが増えていく。明治38年には、ついに最初の殺人を犯す。兵庫県の尼寺で72歳の尼僧をレイプした後に殺害。現金24円を奪って逃走する。ただし、この事件では龍雲の犯行ということは発覚せず、後の取り調べで明らかとなる。
その後、別の事件で検挙され、懲役4年の判決で服役する。
大正2年(1913)1月、刑期を終えて出所した龍雲は、さらに凶悪さを増していく。この年の4月にはまず神奈川県の寺院で66歳の尼僧をレイプし殺害した後、現金を奪って逃走。その数カ月後、神戸市で20代の男性を殺害。そのすぐ後に福岡県でうどん店を営んでいた40歳の女性をレイプ。内縁の妻として同居させるようになる。
翌年、東京・京橋に移り住んだ龍雲は、昼間は尼寺を物色し、夜になると押し入って強盗や窃盗を繰り返す生活になっていく。その犯行は首都圏にとどまらず、大阪や京都にまで遠征することもあった。
レイプと殺人も重ねていった。20代から70代まで、尼僧は手当たり次第に強姦した。そのうち、大正3年から翌年までの1年足らずの間に4人の尼僧をレイプし殺害した。
これだけの犯行を繰り返しながら、龍雲は松本四郎などの偽名を使って警察の手から逃れていたという。
しかし、大正4年8月8日午後3時過ぎ、捜査を進めていた警察によって、龍雲は博多駅構内で身柄を確保された。柔道三段の龍雲は激しく抵抗したが、屈強な刑事たちに取り押さえられ、ついには観念したという。
逮捕された龍雲は、「こうなったら全部白状する」と、自らの犯行を進んで自供した。空き巣や盗み、強盗は数知れず、レイプした女性は判明しただけでも40人以上だったが、実際には100人近くか、あるいはそれ以上ではないかと推測されている。
龍雲は、強盗殺人5件、殺人1件、強姦30件、強盗138件その他で起訴された。ただ、立件できなかった犯行も非常に多く、正確な犯行件数は、警察にも、龍雲本人にもわからなかったらしい。
大正5年5月22日、東京地裁は龍雲に死刑の判決を下した。控訴はせず、判決が確定した。そして、同年6月26日、死刑執行。判決から1カ月と経たない早さだった。
(文=橋本玉泉)