明治18年(1885)1月12日のこと、大阪・豊島郡池田村(現・池田市)にいた勘兵衛とよねという夫婦がそろって銭湯に出かけた。
入り口で別れてからそれぞれ入浴し、その後、先に上がった勘兵衛が外で奥さんを待っていたが、いくら経ってもおよねが出てこない。
おかしいと思った勘兵衛は、番台にいた銭湯の主人に尋ねてみた。すると、「その女の人なら、さっき男性が2人やってきて手招きしたところ、それに応じてついていった」という。
これを聞いて驚いた勘兵衛は、いろいろと心当たりを考えてみたところ、実家の人間が来て連れ帰ったのだろうと思ったという。
このあたり、記事に詳しい説明がないのでよくわからないが、ともかく、何の承諾もなく正規に結婚している妻を勝手に連れ去られてしまっているわけである。勘兵衛はさっそく、憲兵屯所に訴え出たとのことだった。
ここでやや疑問に感じるのは、なぜ2人の男はおよねに接触することができたかということだが、実際には銭湯で女性に近づくことは非常に簡単なことだった。
まず、銭湯はすでに江戸時代から普及していたが、その多くは混浴だった。明治以降、混浴は禁止されたが、それでも従わない業者が多く、その対処もまちまちだったようだ。たとえば、明治5年に東京のある銭湯では、それまで混浴だった浴槽を男女に区切って営業するようになったが、ひとつの浴槽をガラスで仕切るというものだったらしい。
大阪などでも浴槽を区別していたようだが、脱衣所などは一緒という銭湯が多かったらしい。こうしたことから、地方によってバラつきはあるものの、脱衣所から浴槽まで、完全に男女別々になるのは明治期の後期から末期になるまでかかったとのことである。
こうした状況であるから、銭湯で女性に近づくことなどたいへん簡単だったわけである。