【日本の風俗発祥に迫る】
第1回『風俗嬢の起源は巫女だった!?』
第2回『幕府公認のフーゾク店の登場』
第3回『尼さんもセックス大好き♪ 江戸時代は風俗最盛期!!』
風俗発祥の歴史に迫る本コラムもいよいよ最終回を迎えた。今回は戦後から現代にかけて風俗がどのようにして生き残ってきたかを紐解いていこう。
敗戦を迎えた日本は、ご存じのとおりGHQの統治下に置かれることとなった。米軍が駐留することで、夜の街のお得意様は日本人からアメリカ人へと移行したのは言うまでもない。RAA(特殊慰安婦設備協会)と呼ばれる施設が吉原や横浜、銀座などに置かれ、米軍兵士を相手にした風俗が隆盛した。
こうした風俗業態は、れっきとした事実として今に伝えられているが、GHQはデモクラシーの体面を保つために公娼制度の廃止を要求。1946(昭和21)年に遊郭などの公的な風俗施設は完全に廃止。そして遊郭などの風俗店は、特殊飲食店に形を変えて、特定地域でのみ営業が認められるようになった。
大阪にある飛田新地をご存じであろうか。日本の『飾り窓』といわれ、短い時間で美女とセックスできる店が軒を連ねているエリアだ。これらの店はすべて特殊飲食店として登録されている。戦後風俗の名残りといえるだろう。
さて、話を戻そう。こうした事実上の風俗営業が認められたエリアは、赤い線や青い線で囲って区分された。赤線は政府が特殊飲食店に指定された地域(吉原、玉の井、新宿二丁目など)で、青線は特殊飲食店に指定されていない地域(新宿花園町、新宿ゴールデン街付近など)を指す。いわゆる『赤線』『青線』の誕生である。
赤線・青線での業務形態は、カウンターやホールなどの設備を持つ飲食店として営業されていた。男性客とは自由恋愛という形で売春が行なわたのである。前回のコラムでも触れた『貸座敷』と似たような仕組みだ。
料金は宿泊の場合は現在の価格で約20万円。ただし、ショートタイムなどの安い価格で楽しめる遊び方もあったようで、100円で手コキだけをしてくれる学割料金もあったという。