明治43年(1910)7月9日夜11時頃のこと。東京・小石川区(現・文京区)に住むお花という15歳の少女が実家である氷屋さんの配達に出たところを男に襲われた。配達先の向かう途中で、男がいきなり背後から抱きついてきた。驚いた彼女が悲鳴を上げて助けを求めたため、男は何もせずそのまま逃走した。
その犯人は、かねてからお花につきまとっていた、近くに住む雑貨商の山下という男(47)だった。
この山下、つい4カ月ほど前に離婚したばかりだった。その際、奥さんのほうから婦人病をこじらせたことを理由に離婚を申し出てきた。すると山下、彼女の父親から200円の手切れ金をせしめて離婚した。当時、まだ白米10キロが1円程度、サラリーマンの給料が18円とか20円という程度の時代である。200円といえばかなりまとまった金額と考えられる。
大金を手にした山下は、「毎夜各所の淫売窟を漁り歩」いたという。これだけで山下という人物を判断するのはやや尚早かもしれないが、あまり生真面目なタイプではないようである。
そうして女郎遊びに日々を過ごしていたある頃、山下は同じ区内に住むこのお花に目をつけた。彼女の美しさに夢中になった山下は、「嫁にもらいたい」と申し込んだ。
明治期というと女性は若くして結婚していたというイメージを持つ向きもあるかもしれないが、実際にはそれほどでもないようである。国が実施している人口統計調査によれば、明治32年(1899)から大正、昭和初期までのデータを見ると、初婚の平均年齢は男性が28歳から29歳くらい、女性が24歳から25歳程度なので、明治の女性が格段に結婚が早かったとは思われない。
したがって、15歳の少女に結婚を迫るというのは、当時としてもやや逸脱した行為だったようだ。記事には詳しく書かれてはいないが、お花も両親も山下の申し出には応じなかったようだ。