もちろん、今日の医学知識から見ればとんでもないこじつけとデタラメであり、その内容はことごとく誤りなのだが、当時は正しい学問として認められていたのである。オナニーの害は男女とも同様で、女性は婦人病に冒され、やはり最後は死に至ると強調している。当時の専門書には、美貌の女性がオナニーの害によって見るも無残の姿に変わっていく様子が、イラスト入りで説明されているものまである。フランスでは1869年、日本の明治2年頃にはオナニー防止器具まで盛んに販売されたという記録まで残っている。
こうした奇妙奇天烈な学説が、明治時代には最先端の医学知識として導入され、学者や大学教授によってさかんに広められていく。明治35年に刊行の『実用法医学・増補版』(石川清忠・編)にも、「猥褻所行とは倫理にもとりたる淫事行為にて手淫、人獣相姦及び同性相姦、これなり」と紹介されていて、いかに当時の学界の一部がヨーロッパ礼賛の信仰に犯されていたかがわかる。
さらに明治39年に刊行された『生殖新論』では、オナニーは社会的な悪であると断言。やはり包茎やEDなど各障害の原因となり、さらに女性についても、膣ケイレンや子宮炎、卵巣炎や月経異常などを引き起こすというヨーロッパの学者の説を紹介し、その危険性をくり返し主張している。
こうしたヨーロッパの珍説が、百害あって一利なしだったことは言うまでもない。学校の生徒や大学の学生たちのなかには、オナニーをしてしまったことへの罪悪感からノイローゼになるようなケースが続出したという。これには多くの専門家や研究者、識者たちが反発。森鴎外などもオナニー有害論は誤りだとして自著で否定している。
にもかかわらず、オナニー有害説は終戦の頃まで根強くくり返し主張された。要するに、ヨーロッパのエライ先生たちの言うことは正しく、さらに日本の東大その他のエライ所にいるエライ人のいうことは正しいという、思考停止の産物である。エライ人たちが何を信じて恥をかこうが勝手だが、迷惑するのはいつも庶民である。本当に迷惑な話である。
(文=橋本玉泉)