谷崎潤一郎(1886~1965)といえば、いうまでもなく近代文学を代表する作家の一人である。『刺青』『痴人の愛』『蘆刈』『細雪』といった、短編から長編まで耽美派として数多くの小説を残したほか、『陰翳礼賛』などの評論や、紫式部『源氏物語』の現代語訳など、文学的な業績は多い。また、性的な題材を取り上げることも多く、『鍵』『卍』などの異色作も注目された。作品には日本的な美意識が強く反映しており、ノーベル文学賞候補にも取り上げられた。余談であるが、「耽美派」とは明治末期から昭和初期に活動した、芸術的な完成度に重点を置いた作家たちのことであり、現在のボーイズラブ系とはまったく無関係である。念のため。
さて、その谷崎だが、作品の特異性だけでなく、私生活においても奔放な経験を重ねている。
谷崎が女性と初めて交際したのは、東大国文科に入学した22歳の時。当時でも10代で女性と交際したり、遊郭に通ったりする男は珍しくなかったので、谷崎は決して早熟というわけではなかった。
その後、谷崎は芸者遊びを覚え、花柳界に足しげく通うようになる。そして大正4年、なじみの芸者の妹である石川千代子と結婚。翌年には娘の鮎子が誕生する。
ところが、刺激的な性体験に興味があった谷崎は貞淑でつつましい千代子夫人に次第に物足りなくなっていく。そして、長女鮎子の出産以後は、夫婦生活もなくなっていった。しかも、谷崎は千代子の妹である葉山三千子に強い関心を抱くようになる。それによって、ますます谷崎と千代子夫人の間の溝は広がっていった。
その様子を見ていたのが、谷崎の友人である作家の佐藤春夫だった。佐藤は千代子への同情から彼女の相談に乗っていたが、やがて2人は恋愛関係になっていく。その事実を知った谷崎は、「それならば…」と3人で相談を重ねた結果、谷崎は千代子が佐藤春夫と結婚することに合意した。
しかし、その直後に谷崎はこの話を撤回。千代子と佐藤の結婚は認めないと言い出した。これに佐藤は「話しが違う」と激怒。ついに谷崎と佐藤は絶交してしまう。
その後もこの微妙かつ奇妙な三角関係は続いていく。相変わらず谷崎と千代子夫人の関係は冷えたままで、しかも千代子夫人が愛人を作ったり、谷崎と家政婦に男女関係が噂されたりと、不安定な日々が続いた。そして大正15年、佐藤と和解する。
それから、かつての約束から10年近く経った頃、千代子夫人が谷崎と正式に離婚して、佐藤と結婚することとなった。そして3人の連名で、知人たちにその旨を手紙で知らせた。昭和5年8月、谷崎が45歳の時だった。
ところが、これに対して世間が大騒ぎとなった。「自分の女房を品物かなにかのように友達に渡すとは何事か!」と、谷崎はマスコミや世間からバッシングを受ける。谷崎の娘の鮎子などは、そのとばっちりで女学校を退学処分になってしまったほどである。
さて、千代子と結婚できた佐藤は長年の望みがかなって満足だったようだが、谷崎のほうは落ち着かなかった。離婚した翌年の昭和6年、20歳も年下の古川丁未子と結婚するが、今度は人妻である17歳年下の根津松子と不倫関係になり、谷崎のほうから松子に積極的にプロポーズするようになっていく。当然、丁未子とは別居状態となる。
そうしているうち、松子の夫が経営する店が業績不振となり、松子が離婚。それを期に谷崎と松子は結婚する。昭和10年のことである。
この3度目の結婚でも、谷崎は一部の反感を買うような言動をしている。松子は結婚後に妊娠するが、医学的な理由によって中絶する。ところが谷崎は中絶が自らの指示によるものであり、「芸術的な雰囲気を守るため」などと著述のなかに書いた。これによって攻撃される一幕もあった。
3度の結婚などで関係した女性たちを、谷崎は自らの作品のなかにさまざまに表現している。先に挙げた葉山三千子は『痴人の愛』のナオミのモデルといわれているし、最後の妻である松子に対する感情は『春琴抄』のモチーフとなった。
また、松子と結婚すると、谷崎は彼女の妹である重子と信子の2人も引き取って同じ家で暮らすようになった。3人の女性に囲まれた生活のなかで、彼女たちの行動と生態をもとに書き上げた名作こそ、長編『細雪』である。
(文=橋本玉泉)