中江兆民』/紀伊國屋書店
歴史の教科書に出てくるため、中江兆民の名はわりとよく知られている。しかし、教科書や学校の授業では、せいぜい「自由民権運動の政治家」とか「フランスの思想家ルソーの『社会契約論』を紹介し、東洋のルソーと呼ばれた」といった程度しか教わらないのではなかろうか。
中江兆民。本名、中江篤介は土佐(現・高知県)出身。下級武士の家に生まれたが、長崎や江戸で学び、さらに24歳頃のときにフランスに留学。3年後に帰国し、東京麹町に私塾を開いてフランス語や法律、哲学、政治などを教えたところ評判となり、塾生はたちまち2000人にも達した。この業績から、翌年には東京外国語学校(現・東京外国語大学)校長や元老院書記官に任命される。その後、再び私塾の発展に努め、著書の執筆や新聞の主筆などに活躍した。また、自由党の創設に参加し、第一回の衆議院議員選挙に当選し議員にもなった。
このように紹介すると、トントン拍子に出世したエリートのようだが、実はそうでもない。せっかく就いた東京外語校長の職も、教育方針の違いからたった3カ月で退職してしまっているし、その後の書記官も1年数カ月で辞めてしまっている。兆民氏は宮仕えにはあわなかったようである。
そして何より兆民は、奇行の多い変人として知られていた。その破天荒な行動と発言は、岩崎徂堂『中江兆民奇行談』という本にまとめられている。
たとえばある時、友人の世話によって兆民が嫁をもらうことになった。その相手の女性とは、16歳になる華族の令嬢である。しかもかなりの美人で、さらに学業優秀の上に社会常識にも詳しく家事も得意という、これ以上はないくらいのお嬢さんだった。ところが、本人の兆民はたいして嬉しがるでもない。それでも、友人の顔を立てて結婚披露宴を挙げた。
すると、酒に酔った兆民は、たちまち本性を現して大騒ぎ。歌って踊って騒いでいると、そこに花嫁が到着した。すると兆民、若妻を座敷に連れて行くと、いきなり全裸になって自分の陰のうをぐいっと引き伸ばして彼女に見せ付けて言った。
「俺は一文無しで何もないが、このキンタマ火鉢があるから差し上げよう」
すると悪友の一人が、「火鉢なら火が要るだろう」と、真っ赤に燃えている炭火をそこに落としたから大変、「うわーっ熱い!」と兆民はさらに大騒ぎ。こんにバカ騒ぎをするものだから、お嬢様育ちの花嫁が逃げて帰ってしまったことは言うまでもない。当然、婚約は即時解消となった。
別の話では、ある宴席でやはり酒に酔った兆民は、またもいきなり裸になると、自分の陰のうを同じように引っ張って器状にした。そして、そこに酒を注がせて芸者たちに「飲め、飲め」と差し出したという。この時には、手馴れた芸者衆ばかりだったので笑って飲んでいたというが、ワカメ酒ならぬキンタマ酒とは、はたしてどのような味だったのであろうか。
ほかにも料亭で、いきなり火鉢に放尿して芸者衆を驚かせるなど、「お前は子供か」と言いたくなるようなバカなイタズラを何度も繰り返している。
こんな話はたくさんある兆民は、決してお高くとまった学者先生や代議士先生ではなかった。政治家としても評論家としても多くの業績を残したが、なかでもすごいのは53歳の時に喉頭ガンで余命1年半と診察されると、『一年有半』というエッセイ集を書いてしまうあたりは、とても常人では真似できない。こんなおもしろい人物をもっと紹介しないとは、本当にもったいない話である。
(文=橋本玉泉)