MEMBRAN
ヨーゼフ・アントン・ブルックナー(Josef Anton Bruckner)は、19世紀の作曲家。交響曲や合唱曲など多くの作品で知られており、『弦楽五重奏曲』や『交響曲第7番』、『テ・デウム』などの代表作によって日本でも馴染みのある音楽家だ。オーストリアのアンスフェルデン生まれで、最初はオルガン奏者として活躍。34歳でウィーン国立音楽院の教授に就任し、ワーグナーやベートーベンの影響を受けつつ意欲的に作曲活動を進めるようになっていく。
さて、ブルックナーのエピソードとしては、ロリコン疑惑がよく取り上げられる。インターネットで「ブルックナー ロリコン」などのキーワードで検索をかけると、かなりの数の関連ページがヒットする。そうした書き込みなどを見ていくと、たしかにブルックナーがロリータ志向であるかのような情報はいくつも認められる。
27歳の時、ルイーゼという16歳の少女に一目惚れしてただちにプロポーズし、断られたという逸話が残っている。そして、20代から壮年まで浮いた話も見かけない。ところが、地位も名声も得た67歳の時、19歳とか18歳といった、孫ほども年の離れた少女に立て続けにアプローチしている。これでは「ロリコンのブルックナー」と思われてもまったく根拠のない話とはいえないかもしれない。
しかし、年下の少女に求愛したからといって、ただちにロリコンと決めつけるのは短絡的すぎよう。
最初のケースのように、27歳の青年が10歳ほど年下の少女に告白するようなことは珍しくない。年の差もさほど気にするほどではない。
問題の壮年になってからのケースだが、本当に気合の入ったロリコンが、18歳とか19歳といった、かなり成熟度が進んだ女性に向かうかという疑問がわく。その少女たちがどんな外見と体型だったのかは不明だが、18歳といえば、欧米ならすでに成人女性の体格になっていてもおかしくはないし、その年齢で結婚するケースも稀ではない。
本当にブルックナーは、ロリータ・コンプレックスだったのだろうか。
彼に関する数々の資料を読んでみると、彼の性格や行動についての興味深い記述がいくつも見つかる。たとえば、ブルックナーは物に対する関心が非常に強く、何事についてもいちいちメモしていたというし、ある時には河原の小石の数が気になるあまり、自ら川岸で数えていたというエピソードまで残っている。ほかにも、火事などが起きると現場を確認せずにはいられず、何時間も焼け跡を見てまわったらしい。そのため「ブルックナーは死体愛好趣味」という噂まである。
しかしその半面、彼は生身の人間はとても苦手だったらしい。たとえば、作品の評価をめぐって評論家や他の作曲家などと言い合いになるケースはよくある話だ。実際にケンカはしなくとも、反論を書いて雑誌に載せるとか、そういうやり方が正攻法である。
ところが、ブルックナーの場合は何とも奇妙な、何より情けない自己防衛をとっている。知り合いの音楽批評家エドゥアルト・ハンスリックから作品を酷評された際など、ブルックナーは何とオーストリア皇帝に泣きついて、「ハンスリック先生があまり激しいご意見を私に向けないよう、お願い申し上げたく存じます」などと嘆願する始末である。ハンスリックはブルックナーの才能の理解者であり、親しい友人でもあったにもかかわらず、こういう行動に出ているのだ。こうしたケースはいくつもみられる。
そうなると、ブルックナーはむしろ極度の対人恐怖症と考えるのが妥当ではないかと考えられる。そんなブルックナーが、成人の女性にプロポーズするなど至難の技、いや不可能に近かったのだろう。とすれば、臆病な童貞男としては、自分よりもずっと人生経験の浅い、知識の点でも優位に立つことができるかもしれない、10代の少女にターゲットを定めたという可能性は否定できなかろう。
だが、結果的にブルックナーは、すべてのプロポーズをことごとく断られ、ついに一度も結婚することもなく、生涯独身のまま72歳でこの世を去った。はたして、彼が生涯童貞だったかどうかは、筆者は知らない。
余談であるが、ブルックナーの曲の演奏会では、男性の聴衆が圧倒的に多いのだという。その理由はよくわからないが、死後も女性にはあまり好まれないというのは、やや気の毒という気がしてしまう筆者は、ややおせっかいというところだろうか。
(文=橋本玉泉)