世の中広いもので、様々な性癖を持つ人がいるものだ。例を挙げると、建造物に性的感情を持ち、エッフェル塔やベルリンの壁と結婚した人もいれば、ゾウやイルカなど動物に性的感情を沸かせる人もいる。我々凡人には理解しがたい性癖であるが、特異な性的嗜好の中でも、やってみようとは思わないが、なんとなく理解できる類のものも存在する。スカトロ(糞尿愛好趣味)は、排泄による快感が、何らかのきっかけで性的な快感へと変わったものだろう。また、人形を愛するピグマリオン・コンプレックスも、生身の人間のように絶対に裏切ることのない安心感が性的感情へと変化したと思えば、なんとなく理解できる。そういった、「なんとなく理解できる特異な性嗜好」の中から、今回は「くすぐり」に性的感情を持つ人々に注目してみよう。
そもそも、「くすぐり」に性的感情を持つとはどういうことなのか? そういえば、以前テレビのトーク番組で、あるお笑い芸人が、「子どもの頃に、弟に足の裏をくすぐらせていた」というエピソードを披露していたが、そういった幼少期の体験が、成人してからの性嗜好に影響している人もいるだろう。逆に、成人してから初めて「くすぐり」に目覚めた人もいる。きっかけは何であれ、くすぐること・くすぐられることに性的感情を持つ人々を、くすぐりフェチと定義しよう。
次に、くすぐりフェチの人に、「くすぐることでも、くすぐられることでも快感が得られるのか?」という質問を投げかけてみた。結果は、「くすぐることは好きだが、くすぐられることに興味はない」もしくは「くすぐられることは好きだが、くすぐることに興味はない」と、一貫性が見られた。SMプレイと似た感覚なのかもしれない。サディストの人は、加虐することは好むが、自身が鞭で打たれたりローソクを垂らされるのは真っ平ご免だろう。マゾヒストの人も、緊縛を受けアナル開発されるのは大歓迎だろうが、加虐側に回ることは好まないはずだ。
くすぐりプレイは、SMプレイと似た側面を持っているのだろうか? 男性をくすぐることで興奮を得るという女性に話を聞いたところ、「くすぐることで、支配している感覚が堪能できる」と語ってくれた。「くすぐり=支配」とは、実に斬新な捉え方である。と思いきや、くすぐりによる支配は、古くから存在したようだ。遊郭にて、遊女が脱走を図ったり粗相をした際には、くすぐり拷問が行なわれていた。殴る・蹴るの折檻では、商品である遊女が傷物になってしまうという配慮から、くすぐり拷問が生まれたというわけだ。
支配欲を満たす以外でも、くすぐりプレイは楽しめる。くすぐり愛好家の男性によると、女性がよがる姿や、甲高い笑い声にそそられるという。筆者が疑問に感じたのは、よがる姿は、スタンダードな愛撫に悶える姿で、甲高い笑い声は、スタンダードな喘ぎ声でこと足りるのではないか、という点。要するに、通常の前戯で充分と思うのだが…。
「自分のテクニックを棚にあげてこのような発言をするのは心苦しいが、ほとんどの女性は演技をしていると言われている。よって、通常の前戯における悶え姿や喘ぎ声にはイマイチ冷めてしまう。その点、くすぐりプレイでは、嘘偽りのない真の姿を垣間見ることが出来る」(くすぐり愛好家男性)
確かに、全てが演技というわけではないが、ある程度演技をしてしまうのは女性の性(さが)。しかしくすぐりを受けているさいちゅうは、演技も計算も通用しない。女性の「素の姿」を見るには最適なプレイということか。
くすぐられる側の声も紹介しよう。くすぐられ愛好家女性たちによると、「気持ち良いと思える痛みがあるのと同じように、気持ち良いと思えるくすぐり加減がベスト!」なのだとか。簡単なようで難しいような…。
「子ども同士のくすぐり合い程度では、単純にくすぐったいだけの感覚。そこから一歩踏み込んだくすぐりに興奮を得る」(くすぐられ愛好家女性)
ただし、踏み込み過ぎるのも不可。過度なくすぐりは、それこそ呼吸困難に陥るケースもあり、プレイに臨むには細心の注意が必要なのだ。
もし今後、くすぐりプレイへの挑戦を検討するならば、是非「セーフワード」を取り入れていただきたい。セーフワードとは、本来はSMプレイで用いられる。マゾヒスト側が、加虐に耐えられなくなった際に発する合い言葉のことだ。「もうダメ!」「お願い、やめて!」などのありがちな言葉では紛らわしいので、性的シーンとは無縁の、突拍子もない言葉をセレクトするとよいだろう。
(文=菊池 美佳子)