宮沢賢治といえば、『銀河鉄道の夜』や『風の又三郎』など数多くの童話や、『雨ニモマケズ』その他の詩によって、作家として有名だ。その作品は全集にして全16巻(筑摩書房)にも及び、しかも優れた名作も数多い。
しかし、賢治は作家として生活していたわけではない。農学校の教師や農業指導、各種ベンチャービジネスの傍らで、コツコツと創作活動を続けていたのである。にもかかわらず、37歳で死去するまでの間にこれほど多くの作品を書き残していることは、驚くほどの力量といわねばならない。
さらに、今でこそ幅広くその名と作品が知られているが、生前は作家としてはまったく無名だった。宮沢賢治が注目されるようになるのは、詩人・草野新平によって発掘され、紹介されて以後のことである。
その賢治が、実は生涯にわたって童貞だったらしいことはあまり知られていない。
といっても、賢治がまったく女性にモテなかったとか、結婚する機会がなかったとか、ゲイだったとかいうわけではない。賢治はちょっと変わったところがあったとはいえ、裕福な家に生まれ、人柄も悪くなかったという。そのため、女性と交際するきっかけは何度もあり、時には女性から熱烈に迫られたこともあったと、知人などの証言が伝えている。
にもかかわらず、賢治は女性との性的接触を強く拒絶した。その理由や動機には諸説あるが、本当にところは謎のままである。
さて、自ら童貞を貫いた賢治だが、決してセックスやオナニーを嫌悪したりすることはなかった。むしろ、賢治が性に対する興味や関心は強く、浮世絵の春画を収集したり、性心理学の権威であるハヴェロック・エリスの著書を読み漁っていたりしたことが記録に残っている。
そして、農学校の教師時代には、生徒たちにことあるごとに雑談でシモネタを連発したり、「お前、昨夜もやったな」などと笑ってからかったりすることもよくあったという。もちろん、マスターベーションのことである。
健康な肉体と精神を持った10代の男児であれば、性欲は当然のように沸き起こってくるし、オナニーもごく当然のことと賢治は理解していたのだろう。賢治は生徒たちのオナニー行為に対しても、「やり過ぎはよくないぞ」と諭す程度で、頭ごなしに否定することはなかったと、当時の同僚や教え子たちが証言している。
そればかりか、生徒たちに春画について話したりした際、「先生、オレに1枚くれよ」などとせがまれると、惜しげもなく与えていたという。現代ならさしずめ高校教師が教え子にエロ画像を配るようなものだが、賢治と違い、最近の教師は口ではきれいごとを吐きながら、実際には生徒や保護者の母親やネットで知り合った未成年の女性やらと、淫らな行為や不適切な関係を持つケースなどが後を絶たない。“いびつで乱れた”とは、このことではなかろうか。
(文=橋本玉泉)