歴史探訪:日本のアダルトパーソン列伝

【日本のアダルトパーソン列伝】美談を影に「浪費家」「遊郭通い」「結婚詐欺まがい」などを繰り返していた野口英世

 学校の教科書などに登場する偉人や歴史上の人物のなかでも、野口英世(1876~1928)は、とくによく知られた人物の一人であろう。貧しい農家の生まれで、幼少時の火傷による左手の癒着と、手術での回復を体験したことによる医学への意欲。そして苦学による医師免許獲得とその後の国際的な名声など、まさに「偉人伝」にふさわしい人物といえよう。

 だが、そうした立志伝とは裏腹に、人間的にはかなり問題がある人物だったらしいことや、数々の逸脱した行動があることは一般にはあまり知られていない。
 
 1歳5カ月の時に負った大火傷で左手に障害をもちながら、同級生や恩師らのカンパによって機能回復の手術を受けることとなったのが、野口が16歳の時である。この手術によって、野口の左手は日常生活をこなせる程度に回復する。完全ではないにせよ、左手が使えるようになったことに感激した野口は医学を志し、猛勉強をして医師となる。そして、海外に出て数々の業績を積み、最後は研究のために訪れていたアフリカで、研究対象だった黄熱病に感染。1928年(昭和3年)5月21日、病状が悪化し51歳で死亡した。ここまでが、偉人伝などでよく知られている野口英世の輝かしい物語である。

 ところが、野口には人並みはずれた研究への熱意や、鍛錬による極めて高度なテクニックの一方で、カネと女にだらしないという面が数々の資料によって報告されている。

 たとえば、20歳なった野口は医師免許取得のため上京することになるが、その際、恩師や同級生などから40円、現在の価値に直すと80万円から95万円程度に相当する大金を当座の生活費として借りていた。

 しかし、大金を手にした野口は、連日のように遊郭や花柳界に出かけては遊びや飲み食いに興じた。その結果、40円の大金は2カ月ほどですっかり底をつき、下宿代すら払えなくなるという有様。一時は医師免許どころか郷里へ逆戻りという事態にもなりかねなかったが、この時は奇策によって知り合いから生活費を出してもらうことで何とか切り抜けた。

 野口の遊興癖、浪費癖はこれにとどまらない。その後、明治31年に北里柴三郎の国立伝染病研究所(現・東大医科学研究所)に勤務するが、ここでもさんざん借金をした挙げ句、研究所の蔵書を借りては古本屋に売り払い、そのカネでまたも遊びまわった。ところが、すぐのこのことが発覚。研究所をクビになる。

 さらに明治33年、24歳の時に知り合った女子学生と男女の仲になると、彼女とその両親に「婚約します」などと言ってたぶらかし、結婚支度金として300円、現在なら600万円は下らない大金を手にする。

 当初、この300円はアメリカへの渡航費用にするはずだった。しかし、またも野口の遊び癖が炸裂。豪遊でたちまち300円を使い切ってしまった。結局、野口は知人から資金を出してもらって渡米した。しかも、散在した300円もこの知人が借金までして女性の両親に返済したという。

 だらしないのは、カネだけではない。高等小学校(現在の高校に相当)を卒業後、会津若松の教会で出会った12歳の女子学生に一方的にほれ込み、猛烈に交際を迫るようになる。ラブレターを何通も送りつけ、彼女が進学のために上京すると下宿にまで押しかけるという、ストーカーまがいの行為を繰り返している。

 野口の放蕩や散財癖について、「当時の学閥ばかりが幅を利かす日本の医学界への反抗だ」という意見もあるが、その行動を見る限り、単なる女癖の悪さ、遊び好きと考えてよいのではないかと思われる。とかく「偉人は人格的にもすぐれている」と思われがちだったり、そのように仕向けるPTA的な視点があったりするが、歴史的に見てそんなことはない。

 さて、人間的に問題が多い野口だったが、医学研究では超人的な能力と技術を持っていた。その点では、論理的の頭脳タイプというより経験を生かした職人的研究者だった。しかし、その超人的なテクニックの持ち主も、学歴がないということから日本の研究機関では声をかけられず、海外で活動しなくてはならなかったのも、ある意味では必然だった。その後、3度のノーベル賞候補に挙げられながら、日本の政府や医学界は冷淡だった。野口の死後から何十年も経ってから、平成の世に紙幣のデザインとして「浪費家」そして「日本に嫌われた男」である野口が採用されたのも、ひとつに皮肉に感じられなくもない。
(文=橋本玉泉)

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