昭和の貧困の中、性をめぐる征服する者とされる者の生々しい人間関係がドラマ仕立てで展開する。アダルトビデオ界において、ヘンリー塚本監督ほど異彩を放つ作り手はいないだろう。
農村やアパートの一室、せせらぎのある川縁の風景など、かつて日本に存在した懐かしい生活空間を舞台に、母や父、娘、手伝い婦や養女までもを巻き込んで展開する家庭内相姦の世界から、美しい肉体を持った障害者の性、古き日本のカルト宗教の中での秘められた性愛儀式の世界、日本を架空の国に置き換えて作られる軍隊エロスなど、一貫したテーマ性を持ちつつもそのジャンルは多岐にわたる。
今回は69歳になっても未だ精力的にメガホンをとり続ける、AV界の鬼才、ヘンリー塚本監督に直撃インタビューを試みた。
──監督が最初にアダルトビデオを撮ったのはいつ頃ですか。
「今69歳なんだけど、いつだったかな。39か40歳くらいの時じゃないかな。遅かったですよ。それまでは全く異業種で働いていましたからね。最初にやったのはラブホテルにカメラを置いて撮ったハメ撮りです」
──当時はAV業界もまだ元気だった時代ですね。
「僕がこの業界に入った当時は、メーカーはまだそれほど多くはなかったけど、すでに宇宙企画とかあって、アダルトビデオは出せば売れるという時代でした」
──ちなみにAV業界に入るまではどんなお仕事をされていたんですか。
「婦人服などの洋裁をやっていました。ミシン踏みですよ。自分には全然合わなかった世界だけどね。19歳で亡くなった双子の姉がいたんだけど、彼女が洋裁をやっていて、そのミシンを見て、なんだか知らないけど自分も洋裁の道に入っていました」
──意外です。でも、そういえば監督の作品の中にもミシン踏みは登場しますね。
「朝鮮人の経営していた朝鮮職場に住み込みで働いていたんです。職場も安っぽいアパートの2階にありました。当時はまだ、日本と朝鮮半島の経済格差が結構あった時代で、向こうの人がみんな密入国でパスポートもなしに来て、ミシンで金を稼いで仕送りしているっていう環境でした。そんな中、自分も働きましたが細かい仕事は苦手で、最後まで合わなかったですね。それでも十何年続きましたけど」
──業界に入る以前に、にっかつロマンポルノとの出会いがあったとお聞きしました。
「そうです。当時はにっかつロマンポルノの最盛期でした。いい作品をいっぱい見ました。ポルノでこれほどまでに人の心を揺さぶれる作品が作れるんだっていう。でも、最初に見た作品はたまたまくだらなくてね。見て、これじゃダメだと思った。レイプものだったんですけど、これだったら自分のほうがもっと感動するものを作れると」
──今のドラマ仕立ての作風になったのはいつ頃からですか。
「ハメ撮りをやっている時に、あるビデオ会社に、見てくれって撮ったものを持っていったらすごく生々しいって褒めてくれて、作品を現金で買い取ってくれたんです。当時、1,000本以上買い取ってもらって、600万か700万になったかな。AVのビジネスがまだよかった時代ですよ。その資金をもとにいろいろなものを撮っていったんですが、ビデ倫で審査を通すためにはドラマ仕立てじゃないと通らないっていうイメージがあって、自然とドラマ仕立ての作品を作るようになっていました」
──異業種からAV業界への転身は大変だったのでは。
「情熱だけでやっていました。教えてもらった人や模範とした作家もいない。ど素人でこの世界に入りましたからね。当時はカメラの撮り方なんかも、何も知らなかったんです。専門用語なども出演者に教わったり、現場でおぼえていきました。たとえば、カメラを構えて「はじまるよ」ってのは、普通「よーいスタート」でしょ。僕の場合は「OK!」ではじめていたんです。最初の頃は笑われたりもしました」
──当時は何人くらいのスタッフで撮っていたんですか?
「二人、三人でした。音声なんていません。スチールのカメラマンと助手しかいなくて、雑用から何から何まで自分でやりました。バッテリーがなきゃ、1キロ先の車まで取りに行ったり、みんなの弁当を買いに行くとかね。行き帰りの運転も自分でやっていました」
──ドラマ仕立てで作品を作る場合、出演者のチョイスが重要だと思うのですが、何かこだわりはありましたか。
「もちろん。こういうものをやるには、ある程度感性が豊かな人でなきゃだめなんです。バカじゃ務まらない。教養があって、人生やエロのなんたるかをある程度知っている人じゃないと無理です。面接をして、話しをして決めています。
そうすれば、相手がそういうものに向いているかどうか、ぱっとつかめますから。女優に関しては、自分が抱いてみたいと思う女性を使うのもまた重要だと思っています。面接して、こいつとやってみたいなっていうのを直感的に選んで採用するんです。男優に関しては、こだわりとして悪役もできる人を選んでいます。深みというか、悪い役ができる、人を殺したりする役もできる、そういう人がいいんです。そういう男が逆に人を愛したりもするところに魅力があると思っています」
──監督の作品は昔から近親相姦がテーマとしてよく取り上げられています。今でこそAV市場で近親相姦は人気ジャンルのひとつになっていますが、昔はなかった。初期の頃、禁断のテーマに挑戦することで弊害などはありましたか?
「弊害はなかったです。でも、ビデ倫を通す苦労はありました。たとえば、実際の父と娘がやるというのは倫理的にダメですから、ビデ倫は通してくれないんですよ。そこで、血のつながりがないという設定にしないといけないので、テロップを入れるなり、セリフで説明しないとダメでした。僕の頭の中では実際の父と娘という感じで描いている作品も、そのような設定で撮っていました」
──なぜ近親相姦だったのでしょう。
「通常のセックスものなら、世の中には石が転がるがごとくあるわけです。でも、なさそうであるのが近親相姦なんです。特に昭和の時代はそういう話が結構あったんです。男尊女卑で男が強かった時代、娘に手を付けちゃう親父もいたわけですよ。娘はやられて嫌がるけど、やられているうちに快楽をおぼえ、愛も生まれていったという。ひとたび垣根を越えた近親相姦の世界は感動があります。しかも、なかなか他所では見られない世界ということで、わたしがドラマとして一番描きたかった世界でもありました。魂を込めて作ることができる題材です」
──自身の経験は影響しましたか。
「昭和18年に生まれて、亀戸から2歳で千葉に疎開しました。その後、中学一年までそこにいたんだけど、千葉で過ごした時代の体験が自分の作品の原点になりました。そこに自分の昭和があったんです。貧しかったですから、貧しいがゆえにいろんなことを垣間見ることができました。僕が描いているすべてのことが、その時代のいろいろな記憶の中で生まれてきたことです。自分の中で一番描きやすい世界です」
──貧しさの中にこそエロスがあるというのは以前からおっしゃられていますね。
「そうです。ビスコンティみたいに貴族に生まれた監督は貴族の世界を描くのが素晴らしいと思いますよ。でも、僕は貧しさの中で生きてきましたから、そこにエロスを感じます。貧しさというのは不思議なもので、いろいろと性と直結できるんですね。貧しさゆえに仕方がなかったとか。倫理を外れ、オブラートに包まれずに、性と結びつけることができる。自分が貧しかったこと、それから朝鮮職場で働けたこと、自分の体験したこと全てを神に感謝というか、人生に感謝してます」
──障がい者の方の性愛もよく描かれますね。盲目の美しい女性マッサージ師の性や、車いすの女性、寝たきりの人、また以前からよく描かれている、顔に重傷を負った女性の話など。これらも家庭内相姦を絡めて描かれることが多いです。
「身体障がい者も、もちろんセックスをする権利がある。彼らにも性欲がある。人からはそういう対象にされにくいけど、性欲は沸々とわいてくる。そんな人たちの性をなんとしてもドラマ化したかったんです。台本を書いていくうちに世界が広がって、ケロイドの女性の話も生まれてきました。美しい人の顔の一部がケロイドのように醜くなってしまった、人に見せることもできなくなってしまったけれど、一糸まとわぬ姿になると、そこ以外は本当に美しい……。人様がやらない世界、人様が描かない世界にわたしの場合、果敢に挑戦したんです。それがこの業界で生き残っていく術というのもあったけど、ひとつのポリシーでもあり、自分の個性だと思っています」
──作品内での性描写についてですが、1回の絡みのシーンが短く、行為の回数は多い。しかも、同じ男優女優が延々と性交を続けるシーンなんていうのも見受けられます。こういうものは他社の作品では珍しく、監督の作品の特色という感じがします。
「そういうものは僕自身の肉体から出てくるんです。僕自身が1回射精した後、1回で終わるのはもったいないと思うタイプなんですよ。ちょっと時間をおいてまたやる。2回目をしたら1時間2時間おいてまたしたくなる。自分にそういう思いがあるから、そういう風に描くわけです。あと、1回の絡みのシーンが短く凝縮されているのは、見る人に早送りさせないようにするひとつのコツというのもありました」
──これは僕が勝手に発見したんですが、ヘンリー塚本監督の作品はおっぱいを吸うシーンがほとんど出てきません。意図的にそうされているのですか?
「そういうのは別にないですよ。あなたに言われて初めて気付いたよ(笑)。そうだとしたら、それは多分、僕はせっかちな性格で、おっぱいを吸っている時間があったら、おま●このほうを舐めたい、はやく入れたいという気持ちがあるからでしょうね。僕自身、現実にセックスする時はおっぱいなんかちょろちょろとしか舐めないですからね。性格じゃないかな」
──作品の最後に必ず男優と女優が手をつないで踊るシーンがエンドロールとして入ってきます。「FAダンス」というのだと聞きました。
「『トーク・トゥ・ハー』という映画で、ラストに出演者全員がエロチックなダンスを踊るシーンがあるんですよ。それを見て、これだと思ったんです。ラストシーンで心を揺さぶるというのはこういうことなんだと。それとビデ倫がヘアを解禁したことも関係があります。ヘア解禁をどんなふうにサービスできるかを考えて、あのダンスにたどりついたんです。
ここで、出演していた女優さんのヘアを踊りながら見せることができたらエロチックだろうな、最後のエンディングとして人の心に余韻が残るだろうなと。ダンスも試行錯誤しながら今の形に落ち着きました。あのダンスも全部僕が振り付けしたんです。レイプで殺されようが、犯罪を犯そうが最後には手を繋いで出てくるというね。余韻と共に、作品にああよかったなというものをみんなが持ってくれないかなと」
──初期の頃は3人だった現場も今は監督の率いるFAプロも大きくなり、大所帯になりました。現場はやりやすくなりましたか。
「昔のほうがよかったね。少人数でやっていた頃のほうが。僕はもともと知る人ぞ知るでいいというタイプなんです。メジャーでありたくないんです。マイナー作品、マイナーな監督というスタンスに憧れているところがあったんです。
だから、お金もない、ただただ情熱で突っ走っていた頃の自分に帰りたいというのがあります。でも、今は社員を抱えるようになって、彼らを食べさせていかなきゃならないし、彼らの人生を預かってもいるわけですよ。だから、あんまりわがままも言ってられません。彼らのために頑張っています」
──現在も月に6本のペースで作品を出されています。精力的ですね。
「仕事をしている時は楽しいし、風邪なんてひいていられない。いいものを作ることが自分の使命だと考えています。目先の利益を追って、なんとか売れるものを作ろうというのはダメです。努力をすれば必ず実るというのが世の中であって、いいものを作れば、結果も後ろからついてくるものなんです。
今はわたしも69歳です。FAプロを永遠に残すために後ろの人も育てていかないといけない。いろいろあってポルノの世界にたどりつきましたけど、生まれてきたときから、ものを見る目線はポルノだったと思いますよ。そのために生まれてきたんだと。そういう部分を自分でも誇りに思っています。
(取材・文=名鹿祥史)
ヘンリー塚本(へんりー・つかもと)
~男と女の性のリアリズムを追求する奇才監督~
昭和18年、東京亀戸生まれ。東京大空襲により幼くして千葉県夷隅郡に疎開し、10年余りをそこで過ごす。ここはヘンリー塚本にとって故郷のようなものであり、当時の様々な出来事が作品の土台となっている。現在までに制作されたタイトルは1,700本以上。熟女や人妻・レイプ・戦争・近親相姦・そして昭和と、そのジャンルも多種多様。タブーとノスタルジーをモチーフに唯一無二の世界観を表現し続けている。