12月10日、故・寺山修司の生誕記念ライブ『第一回 新世界不完全死体 寺山修司総会』が西麻布「新世界」にて開催された。寺山といえば、主宰の劇団『天井桟敷』や著書『書を捨てよ、町へ出よう』くらいの知識しか持ち合わせない記者だが、なぜか縁あって会場に居合わせた。出演者は、作家の田口ランディと歌手の三上寛と空気公団の山崎ゆかりの3名。かろうじて田口ランディは知っているものの、後者2名については、恥ずかしながら知識を持たない。「新世界」という会場にも、この日初めて行った。そんな場所へなぜ記者が赴いたかという私的理由はさておき、今記事ではこのライブの模様をお伝えしたい。
「象徴芸術」「前衛」「アングラ」「母殺し」……わずか47歳で没した表現者・寺山修司は、さまざまな形容詞で語られる。だが彼は自らの職業を「寺山修司」とだけ言う。そんな表現者に憧れていたという10代のころの田口ランディ。中学生の彼女は、寺山への思いが募り、一方的に日常の些事を綴った手紙を送っていた。「あらゆる鬱屈した気持ちやネガティブな感情を認め、剥き出しにしてくれる寺山さんの作品に救われた」そう初めて寺山作品に触れたころを語るランディ。常日頃から、「ダメな子だった」「なんの取り柄もなかった」と自分の幼少時代を振り返る彼女だが、誰もが理解できるとは思えない寺山の作品に「感情を剥き出しにされた」と言い切るところ、やはり只者ではないといえるだろう。
そんなランディが初めて寺山に会ったのは、彼女が17歳のころ。突然、寺山から「いつも手紙ありがとう。読んでます」と電話がかかってきて直接会うことになったという。寺山自身が田舎の女子高校生に電話をかけたのだ。すでにこのエピソードは、彼女のエッセイなどでも紹介されているものだが、未見の読者のためにも少し紹介したい。
そうして東京にやってきたランディは、寺山に「猫の本を作ることになったから、あなたは猫に関する小説や詩を集めてください」と頼まれることになる。一方的に手紙を送っていた少女に、いきなりそんなことを依頼する寺山。またそれを図書館に通い無邪気に必至にこなしたランディ。運命という言葉を使わずにはいられない両者の関係が伺える。
その後、作家として大成した田口ランディ。生誕記念ライブの日に彼女と共に登壇した歌手の三上寛は「そういうことのわかる人だった」と寺山について語った。
同じ青森県の出身である寺山と三上。15歳ほど年の離れた三上にとって、同郷の先輩が世界的な表現者として活躍する様は大きな刺激になったことだろう。
「あの人は僕に対して仲間や同志のように接してくれたけど、僕からすれば師というか先生なんです」
三上は寺山に対する思いをそう語る。そして、若き三上が寺山から言われ、今でも忘れられないというのが、「君は芸人なのか。それとも表現者なのか」という言葉だという。以来、三上はいわゆるメジャーとは一線を画し唯一の表現者として独自の世界を創り上げている。
そんな2人とは違い、生きていたころの寺山をほとんど知らない世代で登場した空気公団の山崎ゆかり。山下達郎に「どの曲も素晴らしい」と言わしめたというバンドのボーカルである山崎は、21歳のころ寺山作品に出会い「自分が悩んでいたことは間違っていなかった」と直感、以後寺山にのめりこんでいったという。そんな彼女もまた青森県出身のアーティストとして活躍している。
1975年生まれという山崎が、寺山に心酔するのは、かなり特殊な事例のような気がしたが、ライブ会場を見渡してみると意外にも若い女性が多かった。それもおしゃれで美人が多い。彼女たち1人1人に聞いたわけではないが、タバコを吸っている間に声をかけた女性は、「最近になってですけど、寺山さんに興味があって」と来場の理由を話してくれた。一応断っておくがナンパではない。もちろん、会場自体が30人も入れば満員というライブハウスなので、一概に世間がどうのとは言えないが、それでも、割合でいえば20代30代の女性が8割、残り2割にリアル寺山世代の男女と若い男がいるという客層だった。
近年、若い女性の活躍が顕著だというのはどこの世界でも半ば常識になっている。なでしこJAPANにフィギュアスケート、バレーボールも女子が強ければ、芸能界で活躍する若手は女優や女芸人ばかりが目立つ。そして寺山修司というアングラの代名詞的とも言える存在に魅了されるのも女性ばかりだった。こういった現象が今の女性たちの活躍を裏付けているのかもしれない。草食系などといわれる若い世代の男子たちへは、今こそ「書を捨てよ、町へ出よう」という寺山の言葉がピッタリといえる。
(文=峯尾/http://mineoneo.exblog.jp/)
著書『松本人志は夏目漱石である!』(宝島社新書)
今は、ちょっと寒いですが……