梅原北明(1899~1946)
近代日本において、性それも猥雑とか変態といったジャンルにおいて、梅原北明(うめはら・ほくめい)の名を見逃すことはできない。かの宮武外骨(みやたけ・がいこつ)とも並び評される、変態研究の大家である。
梅原北明。本名・梅原貞康は、富山県の裕福な家庭に生まれた。早稲田大学英文科に進んだが中退、東京で外交関係担当の新聞記者となる。その傍ら、ボッカチオの『デカメロン』を翻訳し、大正14年(1925)に出版した。この出版記念会として「ボッカチオ祭」なるイベントを企画し、外交記者のコネを使ってイタリア大使を会場に招くなど、プランナーとしても才能を発揮した。
こうしたイベント企画に加え、当時起こった関東大震災後の娯楽を求める声や、さらに梅原自身の文才などによって、梅原訳『デカメロン』は好評のうちに売れ重版に告ぐ重版。その結果、梅原は予期せず大金を手にすることになった。
それを元手にして、梅原は同年11月、雑誌『文芸市場』を創刊する。そして、ここでも梅原は奇抜なイベントを開催する。創刊の翌月、年末で混みあう東京・神楽坂の路上に『文芸市場』に掲載した作品の原稿や挿絵原画を積み上げ、「原稿市場」と称して通行人相手にたたき売りしたのである。いわば、生原稿のゲリラ的即売会である。
当時、作家はプライドが高く、「芸術は高尚でカネは汚い」という意識の者が多かった。だが、現在とは税制が異なり、印税はそっくり作家の懐に入った。ヒット作を1本書けば大金持ちになれた時代である。「儲けておいてカネが汚いとは何事か!」そう思った梅原は、偽善的な文豪たちに反抗して原稿のたたき売りを実行したのである。当然、文壇からは反感を買った。
だが、反骨精神のある作家たちは、梅原の行動を支持した。「面白い」「それは正しい」とばかりに、ひと癖ある作家たちが『文芸市場』に集まった。小説家の今東光(こん・とうこう)や、画家や演出家など多方面で活躍する村山知義(むらやま・ともよし)、劇作家の金子洋文(かねこ・ようぶん)など、多彩な顔ぶれだった。
そして梅原は、大正15年に会員制のセックス探求雑誌『変態資料』を創刊する。創刊号には「変態伝説考」などの評論やルポが多く掲載された。
ところが、当時はエロ関係などご法度という時代。『変態資料』その他、梅原が編集発行する刊行物が次々に発禁となり、当局に押収される事態となった。
さらに、発禁による経済損失を補うため、昭和2年(1927)から「変態十二史」の発行を開始する。これは、『変態広告史』『変態刑罰史』といった、変態に特化したシリーズで、発売前から予約が殺到する人気だった。
一方、『文芸市場』にもセックスをテーマとした作品や文章が多く掲載されるようになる。性文学の古典とされるジョン・クレランド作『ファニー・ヒル』の全訳が掲載されたのをはじめ、ヨーロッパの主要な性文学作品が数多く紹介された。
こうして梅原は、「変態モノの名編集者」としてその名は高まり、発行する雑誌や書籍は売れ行き好調だった。しかし、やはり内容が過激だったため、発売から3日から長くとも10日までに発禁・押収されてしまう。それでも梅原は萎縮するどころか、発禁も間に合わないほど次々に変態・エロ関係の出版物を発行し続けた。そのたびに、何度も罰金刑を受け、ひどい時には逮捕され投獄される始末だった。その様子を、当時の警視庁は「正気の狂人」と呼んだ。
さらに昭和3年には、雑誌『グロテスク』を創刊する。「エロがダメというなら、グロでどうだ」という、反逆精神むき出しの雑誌だった。そして、この『グロテスク』も毎回発禁処分を受ける。そして、あまりに摘発や検挙が重なったため、「今度逮捕されたら、もう保釈は無理」と、友人や弁護士たちに忠告されるまでになった。そして実際、当局が動いているらしいと聞くと、大阪から長崎に逃げ、そこから上海に渡り、さらに満州に逃れた。そうして逃亡生活を続けながら、なおも国内と連絡を取って雑誌の刊行を続けたという。
当局の検挙や弾圧もものともせず、エロ・グロをテーマとした刊行物を精力的に発信し続けた梅原だったが、終戦直後の昭和21年(1946)4月5日、発疹チフスで急死する。享年47歳。もし梅原がさらに生き続けていたら、戦後のカストリ雑誌時代に、どんな出版物を送り出していただろうか。
(文=橋本玉泉)
『THE ABNORMAL SUPER HERO HENTAI KAMEN 1』
変態だー!!