昭和43年(1968)6月16日の午後3時過ぎ、国鉄(現・JR)大船駅のホーム手前約100メートルの位置で、走行してきた横須賀線上り電車の前から6両目が轟音とともに爆発。乗客1名が死亡、30数名が重軽傷を負うという大惨事となった。いわゆる「横須賀線爆破事件」である。
警察の必死の捜査により、事件から5カ月後の同年11月9日、東京・日野市に住む若松善紀(25)が逮捕された。取り調べの結果、若松は容疑をすべて認めた。そして、犯行の動機を「関係した女を足止めするため」と話した。
若松は山形県の農村出身。父親は戦死し、母親の手で育てられた。幼い頃からおとなしく、一人で機械いじりをするのが趣味だったという。中学卒業後に大工見習いとなり、昭和35年に上京して保谷市(現・西東京市)で大工として働いていた。
だが、肉体労働に暮れる毎日と、都心をスーツ姿で歩く同世代のサラリーマンを見ているうちに感じるようになっていった劣等感からか、やはり上京していた同郷で幼なじみのA子に連絡を取った。
A子は結婚して横浜に住んでいたのだが、実はその頃、浮気をやめない夫にかなり反感を持っていた。そこに、かつての一緒に遊んだ若松から手紙が来たため、気晴らしに付き合ってみようと返事を出した。
そして、若松とA子は何度かデートを重ねた後、男女の関係になる。その後、A子は家出して、若松と同棲を始めた。その際A子は、「ダンナと別れて結婚しましょう」などと口約束までしてしまっていた。
だが、同棲といってもA子が暴君のように振る舞い、若松がそれに従うような生活だった。A子は何かというと機嫌を悪くして、食器などを若松に投げつけるという有様だった。だが、同棲生活が楽しく、しかも結婚の約束を信用していた若松は、そんなA子のわがままを笑って流していた。
ところが、もともとA子は不倫癖のダンナに対するうっぷんを晴らそうとしていただけで、若松にはそれほど愛情も興味もなかった。当然、結婚するなどというのは口からでまかせ。しかも、素朴な若松が日に日に野暮ったく感じられるようになっていき、同棲から1カ月ほどでA子は部屋を出ていった。
しかも、A子はその後、若松の同僚だった男と関係を持って付き合うようになってしまった。
夢見ていた結婚生活の希望が粉々に砕かれ、しかも知り合いの男とカラダの関係になったA子に、若松の怒りは日ごとに増していった。
その怒りを、若松は屈折した形で行動に移してしまった。
「A子はいつも、横須賀線に乗って男に会いに行く。そうだ、横須賀線がなくなれば、会いに行けなくなる」
そう考えた若松は、得意の機械いじりで無煙火薬と次元発火装置を組み合わせた手製の時限爆弾を作成した。そして、それを横須賀線の車内の網棚にセット。そして爆弾は作動し、大惨事となったわけである。
裁判では、一審で死刑判決となり、最高裁で確定した。若松は獄中でキリスト教に改宗し、また短歌を作って雑誌に投稿。高い評価を得た。
そして昭和50年12月5日、死刑が執行された。純朴な青年の、激しい思い込みが招いた悲劇の連鎖といえようか。
(文=橋本玉泉)
『史絵.塾長の鉄娘養成トラの穴 1号車 鉄道車両の基礎・乗り鉄編』
列車の持っていた「哀愁」みたいなものは年々薄れていきマスね