戦後になって全面改正された法律のひとつに、薬事法がある。1948(昭和23)年に改正され、翌1949年に新薬事法によって認可された新薬は全78種あった。ところが、そのすべてが避妊薬だった。
戦時中は富国強兵政策の中、タブーというほどではないにしろ、建前としては避妊というものを題材にすることには消極的な空気があったらしい。日本で最も多く利用されている避妊法はスキンであるが、これも戦時中はどちらかというと性感染症予防というのが前提だったようだ。
それが、堂々と避妊を表明した製品を公にできることになったわけである。これもひとつの戦後の表れともいえよう。
さて、それら認可された避妊薬のひとつが、商品名「サンプーン錠」。製造元は日本衛材株式会社(現・エーザイ)で、膣内に入れると溶けて発泡し、その泡に含まれる成分が精子をくるんで殺してしまうという製品だった。
開発段階では、その「効果」を実験するために、同社の男性社員たちは協力を余儀なくさせられたという。いざ開発薬の実験という直前に、開発担当者がなるべく若くて生きのいい男性社員を引っ張ってくる。そして、「頼む」と言ってコップを渡す。受け取った男性社員は、トイレに駆け込んで精液を「採取」して、研究材料として提供する。それによって、新薬の精子を殺す効果を確認していたのである。
研究が進むと実験に使う精子の量も多くなる。そうなると、若手社員だけでは足りず、中高年の社員にも「協力」を要請しなくてはならなくなった。
さらに、実地での検証も行われた。協力したのは、遊郭で働く女性たちであった。京都は京阪本線の中書島駅近くにあった伏見中書島遊郭。女性の中から有償で協力者を募り、試作品を使用してもらう。そして、お客との行為のあとで洗浄した精子を採取し、殺精子剤の効果を確かめたという。
「ネオ サンプーンループ錠」の人気が
じわじわ出てきているらしい。
また、この「サンプーン錠」なる商品のネーミングは、「3分で溶ける」ということからきているという。
そうして発売された「サンプーン錠」は、たちまちヒット商品となった。さらに、同時期に市場に出た同じ避妊薬も好調な売れ行きをみせ、スキンを抜いて避妊法のトップに躍り出たという。
しかし、その避妊薬に「待った」がかかる。GHQ(連合軍総司令部)公衆衛生福祉局長のクロフォード・F.・サムス准将が、日本政府に対して避妊薬に関する警告を出した。すなわち、過熱する避妊薬ブームにGHQが独自に実験を行った結果、市販されている33種類の避妊薬のうち、その効果が有効と認められたものは6種類に過ぎず、ほかの27製品は効き目がなく、しかも2製品については危険性まで指摘された。
これによって、乱立していた避妊薬は次々に淘汰され、生き残ったものは「サンプーン錠」のほかは山之内製薬の「サンシーゼリー」など、わずか数種類だけだった。
ちなみに、GHQ公衆衛生福祉局長サムス准将といえば、博士号を持つ研究者であり、感染症対策や保健所の改革、学校給食制度の発案など、戦後日本に大きくかかわった人物である。
なお、エーザイからは現在も後継商品として「ネオ サンプーンループ錠」が製造販売されている。
(文=橋本玉泉)
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