「こんな感じ」
「こんな感じって、これって抱きしめてるの?」
「んー。輪の中に梨香が入っているみたいだね」
「なにこの状況!」
「いや、触ったら怒られるかなと思って。俺、梨香に嫌われたくないし」
抱きしめたいと言っておきながら、強引に抱きしめる勇気はない。だから、触れそうで触れないという曖昧な抱きしめ方になった。僕はいつも自分の欲望を「冗談」というポップなものに隠して、相手の反応を待ってしまう。僕はそれを自分でずるいことだと思っている。
「嫌だったら言って」
梨香を抱きしめたい。でも嫌われたくない。だから僕はずるい行動を選択する。
体に触れない僕の腕をじっと見つめながら、梨香は呟いた。
「嫌じゃないよ」
梨香の呟きが、僕の左腕に落ちる。それが僕の左手を動かす。左手を右手と結び、腕の中で梨香を包む。僕は梨香を抱きしめた。
カラオケの部屋に一瞬、静けさが漂った。カラオケ画面に映し出された最新音楽情報が耳に流れてくる。部屋を涼しくさせる空調の音も耳に入ってきた。部屋に入った時に気づかなかった音たちが、ゆっくりと僕らを包む。
梨香から香水と汗が混じったような匂いが香る。それは決して嫌な匂いではなかった。梨香という女性の体臭に女性らしい香水が混じり、その匂いは僕を誘う。もっと吸い込みたいと、僕は梨香を抱きしめながらうなじに顔を当てた。
「んっ」
梨香が喘ぐような声を漏らす。
「ごめん。匂い嗅いでる」
「汗かいてるよ」
「いい匂い」
「本当に?」
「本当」
落ち着く。女性の匂いはなぜ、こんなにも落ち着きを与えてくれるのだろうか。学校にいるときよりも、友達と話しているときよりも、家でのんびりしているときよりも、ものすごく落ち着く。
この首にキスをしたい。その思いは飛躍し、梨香とキスがしたいに変わる。
「梨香」
名前を囁く。
「さっきの歌、もう一回歌って欲しい」
梨香は「なんで?」と首をかしげた。上手だったから。もう一回聞きたくなたから。そう言うと梨香は満更でもなさそうに喜び、もう一度歌い始めた。
激しいロック調の前奏。そして梨香の明るい声が、低くかっこいい声に変わり、それがカラオケの個室の中に響き渡る。
抱きしめたあとに歌うような曲調ではない。けれども、大事なのはこの歌詞だ。キス。もっと深く。ベッドで愛して。僕は梨香と、キスして、もっと深く、ベッドで愛し合ってみたい。
梨香が歌い終わると、僕は抱きしめた。梨香はもう慣れたのか、そのまま素直に受け入れてくれた。
僕は耳元で想いを囁く。冗談という言い方でカモフラージュしながら。
「梨香はキスしたいの?」
「え! なんでよ」
「歌った曲。キスの曲だったから」
「曲でしょ?」
「さっき俺は『抱きしめたい』という曲を歌って、梨香を抱きしめた。今梨香はキスの曲を歌ったから、キスをするんだ」
「なにそれー」
「あれ、今日はそういうルールじゃなかったっけ?」
「もう、どんなルールなの!」
梨香は笑いながら返事をする。ありがたいなと思った。どんな言葉にも笑ってくれるから、性的な想いも素直に伝えやすい。
「そういうルールだから。キスしよう」
僕が顔を近づけると、梨香は一度そっぽを向いた。しかし向いたのは一瞬で、「一回だけね」と強がるように言い、僕の顔を見た。
リスのようにほっぺがぷくりと膨らんだような可愛らしい顔。口元の薄ピンクの唇。
僕は「ありがとう」と言って、唇を重ねた。
梨香の唇は弾力があって、触れた瞬間に「気持ち良い」と思った。目を開けると、梨香は目をつぶったまま僕のキスを受け入れていた。「一回だけ」と言ったその一回のキスの時間が長く、僕は嬉しくなった。
少しして唇が離れた。梨香は「はい終わり!」と再びそっぽを向いた。その動きが恥ずかしがっている乙女のように見えて、僕は思わず抱きしめた。
「ちょっと。終わりって…ん」
梨香の唇を僕はキスで塞ぐ。そして梨香をちゃんと抱きしめながら、舌をゆっくりと差し入れた。
開かれた口の中から、生暖かい吐息を感じる。冷房の効いた部屋は涼しいが、今は熱に飛び込みたいと思った。キスして、もっと深く、ベッドで愛して。もっと深いキスを、梨香としたい。僕は舌を伸ばす。
梨香はそれを受け入れた。
舌が絡まり合う。最初「一回だけ」という約束のはずだったキスは、その後、カラオケが終わる時間まで何度も繰り返された。
キスして、もっと深く、ベッドで愛して。
キスはした。もっと深いキスもした。
あとは…ベッドで愛するだけだ。(続く――)
(文=隔たり)