バブルとガイジンと萌芽 混沌の時代 ~ニッポンの風俗史#12~  

ガイジン風俗新世紀


 そしてまた89年は、ニッポンのガイジン風俗にとっても大きな出発点となる年となった。韓国で海外渡航自由化が始まったのだ。と同時に、短期の観光ビザを利用して、売春目的で日本にやって来る韓国人女性が急増した。街角に立てばすぐにお金になることから、噂は口コミで広がった。

 さらに、バブル経済下の労働力不足から、外国人労働者の受け入れが求められ、翌90年、今度はニッポンの入国管理法が改正された。

 従来は日系2世までだった在留資格が、3世まで認められるようになると、ブラジルを中心とする南米からも多くの日系3世が就労目的で渡航して来た。

 その中には眉唾ものの3世も多分に含まれていたのだろう。グラマラスでどこから見てもラテン系の女のコたちが、ラブホ街周辺の路地に立っては客を引くようになり、出稼ぎのガイジン風俗嬢は、「ジャパゆきさん」などと蔑称で呼ばれるようになった。

 やがて池袋、新大久保などのラブホ街は、ガイジン立ちんぼ黄金時代へ突入していったが、ガイジン風俗は立ちんぼだけにとどまらなかった。大きな歓楽街では中国人や韓国人の連れ出しパブが急増し、さらに、スポーツ紙や夕刊紙などの三行広告欄には「ビデオ鑑賞会」などの見出しで、裏風俗の大人のパーティーが始まった。

 大人のパーティーとは、マンションの一室に5人ほどの女性がいて、集まってきた客と座卓を挟んでお菓子などをつまみながら談笑。その間に値踏みした客が女の子に声をかけて別室でちょんの間遊びをするというものである。

 当初は日本人の人妻や熟女中心だったが、そこに入ってきたのがラテン系のガイジンだったのだ。やがて大人のパーティーは、ラテン系やアジア系のガイジンが席巻し、日本人は少なくなっていった。

 


 最近の話だが、SNSで大人のパーティーをみつけ潜入してみると、令和版オトパは日本人の女のコのみだった。その理由を聞くと、女の子たちは皆温泉コンパニオンで、コロナ禍の自粛風潮で温泉客が減り、コンパニオンの置屋の社長がオトパを開いたのだという。外国人の出稼ぎとはまた違う、新しい理由がそこにあった。

 

大阪にソープランドがない理由


 そして同じ頃、ノーパン牛丼で盛り上がっているはずの大阪では、1990年『国際 花と緑の博覧会』が開催されるにあたり、ふたつの風俗業者が大きな決断を迫られていた。

 これは根拠も裏もなにもないただの噂話に過ぎないのだが、当時、大阪には飛田新地をはじめとする新地とソープランドという、本◯風俗の二大巨頭が混在していた。国際イベント開催に鑑み、当局からそのどちらかを排除することを迫られていたのだ。

 そこで、当事者トップたちが協議した上で決まったのが、大阪五大新地を残すという案だった。現在、大阪府内にソープランドがないのはそういった理由によるようだ。

 赤線廃止から45年、またしても大阪風俗を襲った大ピンチ。だが、もちろん「はい、そうでっか」と簡単に引き下がる難波商人ではなかった。

 ソープランドは廃業したが、店も風俗営業の権利もそのまま。ソープから店舗型ヘルスに転業して風俗店を継続したのだ。

 一部では「ニューヘルス」などとも呼ばれ、元ソープランドなので、湯船はそのまま。女の子と客が裸になるのもそのまま同じなら…。妄想は夢のように広がった。

 そして、いよいよ援助交際という新手の個人営業風俗が本格化し、さらに歓楽街に謎の店が登場する90年代風俗は次号に続く。

〈文/松本雷太〉

 

<参考文献>
・「バブル時代へGO! 証券会社の舞台裏へようこそ!」胡志明(ホーチミン)
・「日本風俗業大全」データハウス 現代風俗研究会著
・「風俗のミカタ1968-2018」人間社文庫 伊藤裕作

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