「皇后陛下」と呼ばれた高貴な最後のパンパンガール
パンパンに関しては前号で「昭和30年代までいた」と書いたが、実は、平成の時代まで生き残っているパンパンがいた。それが「ハマのメリーさん」である。
彼女に関して資料を探してみるが、その多くは晩年のものばかり。おそらく、若い頃はどこにでもいるパンパンの中の1人だったので、目立たない存在だったのだろう。
一説によると、彼女は西日本の出身でバツイチ。戦後、関西の料亭(慰安所)で働いていた時、ある将校に見初められて「オンリー」(専属のパンパン)となり、一緒に横須賀へやって来たという。
が、その後、朝鮮戦争が勃発すると将校は戦地へ行き、とうとう日本には帰ってこなかったということだ。
ドキュメンタリー映画『ヨコハマメリー』の中で、当時、将校らしき男性とメリーさんが最後の別れをした瞬間を目撃したという人の話が出てくる。
「別れの紙テープが風に舞い、『蛍の光』が流れる。船が岸壁を離れ始めると、アメリカ人将校と彼女がやって来た。抱き合ってキスをすると、その将校が船に飛び乗り港を出て行った」
おそらくメリーさんは、最愛の将校が帰ってくるのを横浜で何年も待っていたにちがいない。一途で切ない愛の物語である。
厚塗りの化粧と貴婦人のような真っ白い出で立ち、そしてその数奇な生き様がマスコミなどに取り上げられるようになったのは、昭和から平成になる頃だった。
その頃、彼女はホームレス同然に雑居ビルの廊下で寝起きしていた。エレベーターガールの真似事などをして、客からいくばくかの金銭を受け取り、また、周辺住民に支えられて生きていた。そして平成7年(1995)、懇意にしていた方の協力で郷里に帰り、横浜の街からメリーさんの姿が消えたのだった。
続く。
〈文=松本雷太〉
<参考資料>
・『戦後性風俗体系』広岡啓一
・『Let’s DANCE | レッツダンス ダンスカルチャーを守るために』 HP
・『ヨコハマメリー』監督:中村高寛