そうしたチラシが、公衆電話や電話ボックスなどに大量に貼りつけられていた。たとえば電話ボックスならば、外面のスペースにびっしりと、中が見えないくらいに貼りつけられていた。それに加えて、電話機本体にも多量に張られていたケースも珍しくなかったので、電話ボックスなのかチラシボックスなのかわからないような様子のものも珍しくなかった。
さらに、貼るスペースがなくなった電話ボックスに、透明なプラスチック版にチラシを貼り付けたものが、電話機の後ろに差し込まれていた、というケースも見たことがある。
そのほかにも、電話ボックスやホテル街近くの電柱やビルの外壁、交通標識や看板などにも、ピンクチラシがべたべたと貼られていた光景もよく見かけた。
貼りつけるだけでなく、持ち帰りやすいようにしていたケースもあった。電話機の上に、ホッチキスで束ねたチラシが積んであったり、「ご招待」とか「秘密」などと記されたカードケース大の封筒が置いてあって、中に何枚ものチラシが入っていたりということも多かった。
そんなに多くのチラシがばら撒かれていたのだから、さぞホテトル業者も多かったのではと思う方もいるかもしれないが、実際にはそうでもない。ひとつの業者が何枚も、いろいろなチラシを作って撒くのが普通であった。
当初、そういう事情を知らなかった筆者は、「人妻・熟女」とか「若い娘だけ」というようなニュアンスの異なるチラシのいくつかに料金その他の問い合わせの電話をかけてみたところ、電話番の女性の声が同じで戸惑った経験がある。女性のほうも筆者が何度も電話していることに気づき、しまいには「だからあ、何度も言っているけど~」と呆れられてしまった。
さて、ピンクチラシは小さいながらもほとんどがきちんと印刷されて作られていた。まだインターネットも携帯電話も、スマートフォンもない時代である。わずか数センチ四方の小さな紙製のチラシが、業者には大きな利益をもたらすものだったわけであり、それなりに手間と費用をかけて作られていたのである。
チラシを配布する人員は、雇われたアルバイトによって行われた。当時の求人系の三行広告を見ると、「チラシ配布1万上日払」といったものがいくつも載っている。もちろんリスクは小さくないわけであるが、1日に1~2万円が即金でもらえるというので、応募は多かったと聞いたことがある。
1990年代初頭、つまり平成の初期には、東京・渋谷に冊子になったピンクチラシが登場する。縦12センチ、横8センチから9センチの大きさで、数ページの薄いものもあったが、ほとんどが44ページから66ページという、かなりのボリュームを持っていた。こうした冊子タイプのチラシは、すぐに新宿など周辺の繁華街にも登場した。