風俗なのに挿入はNG、挿入NGなんだけどOKな店もある? という外国人には理解できない独自の進化を遂げたニッポンの“ガラパゴス風俗”。
その歴史を、平成から令和に変わる“日本人にとって歴史の狭間”となる2019年のゴールデンウィークに振り返る短期集中連載!
<注>※歴史には諸説あり、ここに書かれていることがすべて事実とは限らない。
第7回:悲劇の21世紀~歌舞伎町浄化作戦 消えた風俗街~
平成に入ってまもなく訪れたヘアー解禁の流れによって、出版業界でもっとも潤ったのは、風俗誌界隈ではなかっただろうか。
そう思えるほど、当時のコンビニの書棚には何種類もの風俗誌が並んでいた。どの雑誌のグラビアページにも、当時ブームとなっていたコギャル風俗嬢たちがフルヌードで登場。惜しげもなくバストやヘアーを披露し、やがて「フードル」などと呼ばれ、もてはやされるように。80年代に登場したイヴや早川愛美以来の風俗嬢ブームとなったのだ。
では、当時の風俗街の様子はどうだったのか。風俗広告の代理店代表のA氏に当時の様子をうかがった。
「私が業界に入ったのは平成7年(1995年)頃ですけど、その頃渋谷はすでにテナント不足でした。池袋は東口中心に火がついていましたけど、北口はぼったくり店が多くて敬遠され、風俗店の出店は出遅れた感がありました。
風俗店以外にも、SMクラブやパブ、バーも人気で、五反田、六本木に多かったです。広告に関しては、当時すでに大人のパーティーの行数広告(三行広告)が多くなっていました。その後、2000年代に三行広告ブームになりましたけど、当時の方がずっと多かったんじゃないですかね。その頃の大きな変革は、デリヘルが届出制になったことです」
A氏が言うとおり、平成11年4月、風営法改正に伴い、派遣型風俗店が届け出対象となったのだ。
表向きは風俗店の看板を青少年の目から隠すというものだったが、実際には当局が、無登録で開業していた「ホテトル」などの派遣型本番風俗の実数を掴むためであり、そして、後の大きな摘発の受け皿を作っておくためだったのではないかと筆者は推察する。