【平成風俗史】風俗から悲壮感を排除した、明るく楽しい風俗の誕生

 丸見えのおっぱいとチラ見えするヒップや股間をつまみに、客たちは一杯1500円のコーヒー(当時のコーヒー1杯の相場は280円程度)を、何時間もかけてチビチビと舐めるのだった。

 「あべのスキャンダル」のオーナーだった有田光昭氏は、雑誌のインタビュー記事の中で当時の様子をこう語っている。

「当初は1日30万円の売り上げがあればいいと思っていた。でも、いざフタを開けてみたら、最高200万円を売り上げた」


 ちなみに伝説の喫茶店「ジャーニー」の制服は、普通のミニスカスーツにノーパンパンスト。コーヒーは1杯500円だった。

 その後、ノーパン喫茶は瞬く間に全国に広がり、翌年には東京で200軒、大阪で140軒開業している。名古屋には、床がガラス張りでスカートの中がモロ見えの店や、ワレメに絆創膏を貼っただけの女のコも登場した(笑)。

 当時、原宿近くでアルバイトをしていた筆者は、チーフが興奮気味に、


「アソコにできたノーパン喫茶知ってるか!? 窓の外からのぞいてるヤツ、たくさんいるぞ!」


 興奮気味にそう言っていたのを覚えている。残念ながら、ノーパン喫茶には一度も入らなかった。それが今となっては非常に悔やまれる。

 その裏で、ノーパン喫茶の登場は、“パンティを穿いてないウエイトレス”というだけでなく、風俗界にとって革命的な現象を起こしていた。

 それまでの、ピンサロやトルコ風呂などの風俗にいた女性たちは、正直、若くもなく容姿も良くない女性が多かった。しかし、「さわらず、さわられず、脱ぐだけ」で、OLの数倍もの給料を手にすることができる職業の登場に、風俗業界は、働き手である女性たちの裾野を格段に広げることができたのだ。

 ノーパン喫茶の登場は、「売られてくる風俗」というイメージから悲壮感を排除し、「明るく楽しい風俗」へと大きく舵を切るきっかけとなったのだった。

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