大正14年(1925)5月31日のこと、浅草に住む男(41)が「所持金を盗まれた」と警察に駆け込んできた。
聞けば、肌身離さずに持ち歩いていた、現金730円を持ち逃げされたのだという。当時、サラリーマンの初任給が40円前後、東京でも6畳2間のアパートが家賃20円くらい。730円といえば、現在の価値で言うと400万円くらいだろうか。とにかく、かなりの大金である。
しかもその大金を持ち逃げしたというのは、見たところ10代の少女であったという。
事件の発端は、5月30日の夕方だった。被害者の男が浅草公園を通りかかると、着物や髪型から、どうやら地方から出てきたと思われる14、5歳の少女がしくしく泣いている。男が不審に思って近づいてよく見れば、あどけない顔をしている。
そこで「どうした」と声をかけると、少女は顔を上げて自分の身の上を話し始めた。自分は両親に早くに死に別れ、頼りにするただ一人の姉も行方が知れず。頼れる人もいない一人ぼっちで、などと涙ながらに語った。
この話を聞いた男は、「それは気の毒に」とばかりに、少女に映画を見せたり、着物を買ってやったりと世話を焼き、やがて自分が住まいにしている木賃宿に泊めることにした。