もしかしたら、山下も見当違い、筋違いは十分に理解していたのかもしれない。だが、人間は怒りや不満をどこかにむけなければ気がすまない時があるものである。それがたとえ、理不尽なものであったとしても。
若狭楼に到着した山下は、玄関先で「借金を返しに来たぞ!」と大声で言い放つと、そのまま2階へと駆け上がった。そして、まずかの妓夫を出刃包丁で切りつけるとともに、胸を力任せに貫いた。妓夫は階段から転げ落ちて即死した。
その後、その場にいた娼妓や楼主などに次々に切りつけた。暴漢の乱入に、楼主の吉岡氏は負傷して血だらけになりながらも「早く逃げろ。警察に知らせろ」と女性従業員たちを逃がした。
その間にも、山下は包丁とナイフを手に、血まみれになったまま暴れまわった。何人もの娼妓らが負傷した。
そうしているうち、知らせを聞いた警官が現場に駆けつけた。警官が迫るのを見た山下は、もはやこれまでとあきらめたのか、手にしていた出刃包丁で自分の腹部を切り、さらに喉を突き刺して自殺を図った。
重傷を負った山下は、そのまま警官たちによって捕縛された。治療が行われたものの、喉の傷がひどく、犯行翌日の22日夜12時頃に死亡した。
被害者は8人で、1名は即死、7人が重軽傷を負った。
遊郭での大量殺傷事件としては、ほかに明治13年にやはり吉原で2名が死亡し5名が重軽傷を負う『杉戸楼7人斬り事件』、明治38年には大阪の堀江遊郭で5人が死亡し1名が重傷を負う『堀江6人斬り事件』などが起きている。
(文=橋本玉泉)