<第三回 近代編>

【日本の風俗発祥に迫る】尼さんもセックス大好き♪ 江戸時代は風俗最盛期!!


 女郎の種類は多岐に渡り、この頃に現代風俗産業の礎が築かれた。たとえば、湯女(ゆな)風呂。江戸時代の町民は、薪代が高いために基本的に銭湯を利用していた。そこに目をつけて銭湯を風俗店に仕立てあげたものだ。いわば現代のソープランドである。東京の神田周辺には200以上もの湯女風呂が栄えたが、客を奪われた吉原遊郭の働きかけによって摘発されるという憂き目にも逢った。

 そのほかにも、いわゆる立ちんぼの夜鷹(よだか)や、温泉コンパニオンのように宿屋で旅人に仕える飯盛女(めしもりおんな)など、あらゆるシチュエーションで売春が行なわれていた。なかには比丘尼(びくに)といって、尼さんの格好をした風俗嬢も。百花繚乱の風俗最盛期を迎えたのである。日本は今も昔も風俗大国だったといえるだろう。

 しかし、独自の発展を遂げてきた日本風俗に多大な影響を与えたのが、西洋諸国である。江戸幕府が倒れ、文明開化の明治時代に突入してすぐ、日本風俗に多大な影響を与える衝撃的な事件が起きた。

 それがマリア・ルーズ号事件だ。

 これは奴隷を乗せていたペルー船が、南シナ海で暴風雨に遭遇。横浜港に停泊して救助を求めた際、奴隷が脱出を図り、イギリス軍艦に逃げ込んだ。この事件の裁判は日本で開かれることになり、イギリス人弁護士などが集う国際的な法廷となった。

 一見すると風俗業界とは何ら関係のない事件にも思われるが、この裁判が意外な展開を迎えた。当時の神奈川県令であった大江卓が「日本にも奴隷は存在する」と主張したのである。大江が指していたのは、まさしく遊女たちのことであった。

 一連の裁判がキッカケで、日本の公的な売春制度が国際的に知られることとなり、女郎解放の風が強まった。そしてマリア・ルーズ事件が起きた同年、遊女屋を取り締まる「芸娼妓解放令」が発令。遊郭や岡場所は形を変えて生き残る以外に方法はなかった。

 「芸娼妓解放令」が制定されて間もなく、遊郭やその他の風俗業の主たちは、いっせいに遊女屋を廃止。そして『貸座敷』を名乗るようになったのだ。

 貸座敷というのは、いわゆるレンタルルーム。遊女たちはその場所を借り、自らの意志で商売をするという体裁を取ることで、売春を続けた。結局、風俗業界は構造を変えただけで、生き残ったのである。当時の東京府は吉原、品川、新宿、板橋、千住の5ヶ所に貸座敷の営業許可を与え、全国では545ヶ所、約5万2千人の遊女がいたと考えられている。

 風俗業界のしぶとさを物語るエピソードともいえよう。しかし、文明開化により西洋の宗教観が入ってくると、次第に売春(風俗)=悪、という構図が鮮明になってくる。キリスト教系の婦人会などが廃娼運動を展開し、女性解放を訴えたのだ。

 たしかに江戸期の遊郭では、幼女を買い取り、花魁に仕立て上げるべく教育を施していた。しかし、それは幼女を売る貧しい両親たちの暮らしを助けることになり、少女たちも大事に育てられた(掟を破ると大変な目にあったらしいが)。しかも太夫まで登りつめれば国民的スターになりえたのである。決して奴隷のようにすべての権利を奪っていたわけではないのだ。

 むしろ、風俗嬢を蔑視するような偏見を植え付けたのは、西洋的な価値観に固執した運動家たちによるものだといえよう。

 それでも日本の風俗は後世に連綿と受け継がれていく。戦後の荒廃した日本が力強く復興する力の支えとなっていった。

 次回は最終回。戦後から現代にかけて、いかに風俗が生き残ってきたかについてをテーマにしたい。
(文=中河原みゆき)

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