「銘酒屋」に「新聞縦覧所」 名目をつけて営業していた明治時代の風俗スポット

※イメージ画像:『風俗店ここだけの話』イースト・プレス

 明治維新以後、明治新政府は性に対してさまざまな規制を実施し、庶民生活にまで弾圧とも言えるような締め付けを行った。銭湯における混浴を禁止したのはまだしも、肌をさらすことすら激しく禁じ、自宅の軒下で夕涼みをしていた主婦が胸元を露わにしただけでも逮捕拘引したというから、その対応は異常ともいえよう。

 そうした状況であるから、セックス産業つまり現在でいう風俗店も激しい取り締まりを受けた。近代国家を目指す日本に、売春などまかりならんというわけである。

 だが、実際にはさまざまな名目で営業し、女性を置いて性的サービスを実施していたケースがいくつもあったと資料に伝えられている。

 たとえば、江戸時代から盛んだったものに「麦湯」がある。もともと江戸中期頃に自社の境内や観光名所などに「水茶屋」という店があった。最初は単にお茶などを提供する喫茶施設だったが、次第に女性が対応するようになった。現在でいう喫茶店である。すると、始めは地味な服装だった女性も、客寄せに派手に着飾るようになる。現在なら美人喫茶かメイドカフェのようなものだ。それがさらにエスカレートし、ウエイトレスだけでなく店外デートもかのうというふうになっていく。こうなると風俗店そのものである。そうなると、当局も黙っていない。規制によって水茶屋は次第に衰退していった。

 次に登場したのが麦湯または麦湯店という営業である。麦湯とはいわゆる麦茶であり、現在でも夏の風物詩だ。そしてこの麦湯だが、単に麦茶を出すだけの店ではなかった。やはり見せには女性がいて、客の求めに応じて性的サービスを提供していた。

 

※画像:江戸時代の「麦湯」の様子(「狂歌四季人物」より)

 この麦湯が明治になっても営業を続けたらしい。明治6~10年頃の『新聞雑誌』『郵便報知』『東京曙』などの新聞に掲載された記事を見ると、上野や浅草、両国、赤羽など東京やその周辺各地で麦湯店が盛んに営業していたと報じている。ただ、風俗店のようにシステムが確立していた店ばかりではなく、二つ返事で客の求めに応じるケースもあった一方、お菓子などを手土産に女性を口説くこともあったらしいから、現在のキャバクラのような店も多かったのかもしれない。

 そしてこの麦湯が取り締まりを受けるようになると、今度は「甘酒屋」に看板をかえて営業するパターンが増えた。さらにこれも当局から目をつけられると、明治20年代には酒類を飲ませるという名目の「銘酒屋」へとかわっていった。こちらも名目上はショットバーのように見せかけながら、実際には風俗店という内容だった。

 そのほか、店内に新聞各紙を掲示して無料で閲覧できる「新聞縦覧所(しょうらんじょ)」というものもあった。当初は本当に新聞を読むだけの施設だったようだが、次第に案内として女性を待機させるようになり、やはり店外デートの案内所のようになっていったようだ。同じようなケースとして、碁会所などに女性が待機している営業形態もあったようだ。

 麦湯や銘酒屋、新聞縦覧所など、いずれも女性と交渉成立した後、近隣の待合、現在でいうラブホテルのような施設でセックスするというパターンが主だった。プレイルームを備えた風俗店が主流になるのは、ずっと後の昭和40年代以降のことである。
(文=橋本玉泉)

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