相撲といえば男がとるものと決まっているようだが、民俗学関係の資料を読んでいると「女相撲」の記述がいくつか見つかる。江戸時代の寛延年間から宝暦年間というから、1750年頃には仙台から岩手県南部にかけて女相撲の興行があったと資料に残されている。
さらに時代をさかのぼると、秋田県の北部に走る米代川の流域で広い区域にわたって女性が相撲をとる慣習があったらしい。こちらは興行というより祭りのなかで神前への奉納として行われていたようであり、その目的は「雨乞い」である。
もともと相撲は神事として各地で盛んに実施されていた。その名目はさまざまだが、雨乞いの意味で女相撲を行うことについて、確実な説明をつけるのは難しいものの、まったく理由のないことではない。全国にみられた雨乞いのなかには、通常の雨乞いでは男女交えて踊るところを、とくに効果を求める際には女性だけが踊るケースや、雨乞いに参加する女性は下着を着けてはならないと決めている地方などもあったという。
また、相撲に関しても、水との関係が深いという考えがある。河童が相撲を好むといわれているのも、相撲と水との関係を示しているという意見もある。
さて、その雨乞いの女相撲だが、現在の大相撲のように礼儀正しく整然ととるのではなかったらしい。土俵もなく行司もおらず、しかも力士たる女性はまわしも着けない全裸。そして、相手を徹底的に打ち負かすまで続けるというから、相撲というよりも現在の女子プロレスか、キャットファイトのようなものだったと推測される。
資料によれば、最初は地域の集落から腕自慢、身体自慢の女性が名乗りでて行っていたが、やがて興行の女相撲がとって代わるようになったらしい。さらに、この風習は明治時代になっても続けられた。それが、大正から昭和になる頃には、全裸だった女相撲にまわしをつけるようになった。だが、それも演出のひとつで、取り組んでいるうちにまわしが外れて丸見えになると、観客がどっと笑うのだそうだ。
女相撲については、新聞記事にもなっている。明治13年8月27日の『朝日新聞』(大阪)には、大阪の千日前で「手踊り」と称して実は女相撲をやっていた興行が大評判になったが、すぐに当局から警告され、本当にただの手踊りになってしまったため、大勢のファンががっかりしたという記事が載っている。これはさすがに全裸ではなかったようだが、さだめし近代初の公開セミヌードショーといったところだろうか。
(文=橋本玉泉)