かつて日本の地域社会では、共同体あるいは集団への帰属や融合を重視したと考えられる、さまざまなルールやシステムが数多く伝えられている。そのなかでも、とくに社会的にも身体的にも未成熟な10代の少年少女をはじめとして、若い世代の者たちに共同の場や組織が設定されていた。
それは、組織としては「若者組」「娘組」などと呼ばれ、また施設としては「若者宿」「娘宿」「遊び宿」などというものが用意されていた。地域の行事や日常業務、冠婚葬祭などを共同で作業を行うものである。「宿」といっても宿泊施設とは限らず、午前中に自宅から集まってきて、夕刻にはまた帰宅するという、いわば共同作業場のようなものも少なくなかったらしい。
だが、この「宿」は若い男女の交流の場として重要な意味を持っており、いわゆる「夜這い」実践の場としても多く活用されたと数々の資料に紹介されている。
そうした集団行動の例として、よく知られているもののひとつが、かつて神戸市内にあった「雑魚寝堂」である。
大正12年頃まで兵庫区駒ヶ林(現・神戸市長田区)に海泉寺阿弥陀堂という建物があり、別名「雑魚寝堂」または「枕寺」と呼ばれていた。古い資料によれば、大晦日の晩にはこの堂に地元の若い男女が泊まり、夜のうちに「契り」を交わしたものが新年に夫婦として認められたというものである。
寺院の堂でそうした行事が行われていたことを、神前結婚か仏前結婚のように解説している資料もあるが、そうした考え方は疑わしい。明治時代初期まで結婚式といえば現在でいう人前式がもっぱらであり、現在主流となっている神前結婚式は明治期に行われるようになったキリスト教式の結婚式にならって発生したものであり、仏前結婚も同様である。したがって、この雑魚寝堂も、単に大人数が収容できる施設として選ばれたに過ぎないと考えるのが自然でかつ論理的である。
さて、雑魚寝しながら夫婦となる伴侶を探すといっても、実際にはそれまでに意思を通じ合った男女がそうした行事に参加したのであって、いきなり見ず知らずの少年少女が相手を決めたのではなかろうと考えられる。全国各地の若者宿や娘宿に関する資料を読んでみても、男女が日常の作業などを通じて少しずつ慣れ親しんでいくのが普通である。おそらくこの「大晦日の雑魚寝」も、すでに懇意になったカップルたちが、セレモニーとして参加する行事ではなかったかと推測される。
とはいえ、仕切りも何もないお堂の中で男女の行為を行ったわけであるから、それなりに興奮するものだったろう。まさかいわゆる乱交状態になったわけではなかろうが、かなり刺激的な状況であったことは間違いないと思う。実際にそうした体験をしてみれば、その雰囲気はわかることと筆者は考える。私見ながら。
(文=橋本玉泉)