明治時代の新聞をながめていると、銭湯を舞台にした珍事件がしばしば顔を出す。明治15年には「女性にモテたい」とばかりに、銭湯に忍び込んで若い女性の肌にイモリの黒焼きの粉を振りかけて取り押さえられた男もいるし、25年には外国人男性が東京・新橋の銭湯にやって来てカメラで女湯を撮影しようとした事件も起きている。新橋の事件では入浴中の女性たちが大騒ぎとなったためその外人は撮影を断念して立ち去ったが、どうやら「日本人は裸を撮影するくらいは平気」だと思っていたらしい。
さて、明治42年のこと。東京の横網、柳橋、浜町など(現・東京都墨田区、台東区、中央区)で営業する銭湯の業者一同からある女性客が「入浴御免(お断わり)」を言い渡され話題となった。同8月3日付の『朝日新聞』によれば、その美女は連日または一日おきに、決まって正午頃に使用人の女性を伴って銭湯に現れるという。
その美女、まずは持参した入浴道具を洗い場の真ん中に並べて占拠すると、「小桶に六杯」という大量のお湯で身体を流してから悠々と入浴。湯船を出ると、右腕を洗う際に六杯のお湯を浴び、左手を洗っては六杯、胸や足を洗ってはそれぞれ六杯のお湯を使う有様。しかも正午頃やって来て帰るのは4時過ぎ。それでも、入浴代は通常の3銭5厘。洗い場に長時間居座り、しかもお湯を大量に使う様子に、ほかの客から苦情が殺到した。
この頃、世間では安価な石炭が安定的に供給するようになったため、お湯を多く使う分には経営にはそれほど響く事はなかった。だが、「多数入浴客の苦情百出したる」ということになると、見逃すことはできないと判断したわけである。
ちなみにこの「銭湯出入り禁止」となった美女だが、記事では日本橋浜町に住む28歳の女性で、「恋愛稼業」と紹介されている。この恋愛稼業なるものがどのような仕事なのか、まだ調べがついていない。今日でいうデートクラブのようなものなのだろうか。
(文=橋本玉泉)