「山宣」(やません)の愛称で知られる山本宣治(1889~1929)は、昭和初期に活躍した代議士として知られている。裕福な家庭に生まれた山宣だったが、生まれつき身体が弱く中学校(旧制)を中退。園芸家を志して19歳で単身カナダに渡り、皿洗いなど30種類以上の仕事をしながら現地の小学校から中学まで通う。だが、高校在学中に父の病気により24歳の時に帰国。同志社中学に編入し、第三高等学校(後の京都大学教養部)を経て東大理学部動物学科に入学する。卒業後は同志社大や京大の講師になるが、この頃から性教育の充実と産児制限についての主張を強めていく。昭和3年(1927)、38歳の時には労働農民党から出馬し当選、衆議院議員となった。
その山宣が注目したのは、日本における性教育の現状であった。当時の日本では道徳的観点から性については秘匿することが非常に多かった。性教育どころか性について教えていない、あるいは故意に「ウソ」を教え込むケースが普通だったのである。
そこで山宣が始めたのは、学生に対する性意識調査であった。調査対象は東大、京大、早稲田大など、当時のエリート予備軍517名である。調査は大正11年(1922)から昭和3年まで、文化人類学者の安田徳太郎と共同で続けられた。その調査結果の一部は、次のようなものである。
■マスターベーションの経験…93%
■セックスの経験…21歳で約50%
■最初のセックスの相手…年長者という回答が51%
■童貞を失った際の相手…売春婦という回答が32%
また、出産についての質問では、「母親のお腹が桃太郎の桃のように割れて生まれてきた」とか「木の股から生まれた」などと親や年長者から聞かされたという答えが多く得られた。こうした調査結果から、山宣は日本における性教育の遅れを痛感した。
さらに、当時はマスターベーションに対する害毒論が主流であり、「オナニーは頭脳と身体に著しい悪影響を及ぼす」信じられていた。だが、ほとんどの学生がオナニーを経験しているという調査結果や動物学的な見地からもその根拠が見当たらないことから、山宣は「オナニーは無害」と強く主張した。そして、当時多く使われていた「自涜」という用語に対して、山宣は「自慰」という語を好んで使用した。
しかし、こうした山宣の調査結果の発表と主張は、体制側の学者たちや国家主義的な人々から猛攻撃を受けることとなる。オナニー無害論や産児制限などは「若者を惑わし国力増強を邪魔する亡国の輩」と中傷され、学生の3割以上で初体験が売春婦という調査結果にも「最高学府の尊厳を汚す」と非難を受けた。
こうした非難に対して、山宣は毅然とした態度をとり続けた。それがかえって災いしたのか、昭和4年(1929)3月5日、民族派を標榜するテロリストの手によって、東京・神田神保町の旅館で刺殺された。40歳という若さであった。
この調査は性科学における業績として、高く評価されている。そうした意味で、山宣の死を惜しむ声は数多い。調査結果の発表は山宣の暗殺によって中断し、再開したのは7年後の昭和11年(1936)だった。ちなみにその後、同様の調査がソ連やアメリカでも実施された。そして、山宣が暗殺されてから19年後の昭和23年(1948)、アメリカ・インディアナ大学教授アルフレッド・キンゼイの研究チームによる大がかりな性意識調査が発表された。いうまでもなく、歴史に名高い『キンゼイ報告』である。
山本宣治全集はこれまで2回発行されている。1979年に汐文社から刊行された全7巻は、古書店などでも比較的入手しやすいようである。
(文=橋本玉泉)