戦後最凶最悪の連続レイプ殺人事件「おせんころがし事件」とは

※イメージ画像:『実録レイプ裁判 法廷で暴かれた犯行現場』著:宇野津光緒/双葉社

 凶悪事件と呼ばれる犯行は数あるが、そのなかからワースト10を選べといわれたら、筆者はそのひとつにこの事件を取り上げるだろう。「おせんころがし殺人事件」などの名で知られる、栗田源蔵という男による一連の連続婦女暴行殺人である。

 昭和27年(1952)1月13日、千葉県検見川町(現・千葉市検見川区)で24歳の主婦とその叔母である63歳の女性が自宅で殺害されているのが発見される。死因は両者とも絞殺で、63歳伯母は腹部を刃物のようなもので深く刺されており、24歳主婦は死後に性的暴行を受けた痕跡があった。

 現場の残された指紋から、栗田源蔵が逮捕された。そして、取り調べを進めていくと、栗田の過去に起こした凶悪事件が次々に明らかになっていった。

 まず昭和26年(1951)8月8日夕刻、栃木県小山町(現・小山市)に盗み目的で民家に押し入り、寝ていた24歳の主婦を強姦した後に絞殺。衣類などを物色した後、さらに遺体を死姦して逃走した。

 そして、その2カ月後に栗田は凄惨な事件を起こす。10月10日の23時頃、千葉県小湊町(現・天津小湊町)を自転車でうろついていた栗田は、駅の待合室で3人の子供といっしょにいた29歳の主婦を見つけた。そこで栗田は、彼女と情交に及ぼうとしつこく口説いたがまったく相手にされず、主婦は3人の子をつれて帰り道についた。

 それでもあきらめきれない栗田は、その後を追いかけてなおも彼女を口説きつづけたが、それでも主婦は適当にあしらうばかりだった。

 これに怒った栗田は、通称「おせんころがし」と呼ばれる崖沿いの道にさしかかった所で、いきなり5歳になる長男に襲いかかり、道端にあった石で頭をメッタ打ちにして崖下に投げ落とした。続いて、7歳の長女も同様に顔などを殴りつけて、崖下へと突き落とした。

 その直後、「やめて、助けて」と泣きながら懇願する主婦を道端の草むらに押し倒すと、そのままレイプした後に首を絞め、ぐったりしたところを崖下に投げ落とした。最後に、眠っていたまだ2歳の次女をつかみ上げると、顔を殴りつけたうえに首を絞め、同様に崖下へと投げ込んだ。

 翌朝8時頃、現場近くを通りかかった寺の住職(56)が小さな女の子の泣き声を聞きつけ、崖の途中にある草むらで長女を発見。さらに崖下の海岸に母親と長男、次女の3人の遺体を発見した。長女の話によれば、崖の途中にある草むらに引っかかったために、一命は取り留めたという。

 しかも、さらに取り調べを進めていくと、昭和23年(1948)2月にも、静岡県で17歳と20歳の女性を殺害していたことも判明。男女関係のもつれによるもので、栗田が無軌道に肉体関係を結んだ挙句、邪魔になったため2人とも殺害し海岸に埋めていた。ほかにも栗田は、暴行や傷害、殺人未遂などの粗暴事件を何度も起こしていた。

 わずか4年ほどの間に、女性6人、乳幼児2人を殺害する事件は、終戦の混乱がまだ続いていた当時ですら、まれにみる凶悪事件として世間の話題となった。

 検見川町での犯行から7カ月後の8月13日、千葉地裁はこの事件で栗田に死刑を言い渡した。さらに翌年の昭和28年(1953)12月21日、それ以外の3件6人を殺害した事件で宇都宮地裁もまた栗田に死刑の判決を下した。栗田はそれぞれすぐに控訴したが、翌年の昭和29年に取り下げ、死刑が確定した。

※画像:『朝日新聞』昭和26年10月11日より
※画像:『朝日新聞』昭和27年1月18日より

 東京拘置所に収監された後の栗田は、傍若無人な振る舞いを続けた。最初のうちはいきなり怒り出して暴れまわり、やがて不眠や吐き気などの不調を訴え、やがて房内で壁に頭を打ち付けるなど自傷行為までするようになる。やがて死刑施設のある宮城刑務所に移された頃には、筋肉質だった体もげっそりと痩せ細り、暴れることもなくおとなしくなった。というよりも、すでに弱りきっていたらしい。

 そして昭和34年(1959)10月14日、栗田は宮城刑務所で死刑執行された。33歳。

 犯罪関係の資料などには、栗田を「戦後、最も凶暴な犯罪者」と表現するものもある。また、収監中の栗田を観察していた東京拘置所の精神科医・小木貞孝は、後に加賀乙彦のペンネームで小説『宣告』などを発表することとなる。
(文=橋本玉泉)

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